本館収蔵品紹介

【青花玉壺春瓶】

モンゴル帝国・元  

【青花玉壺春瓶】

瓶の形 「玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい) 」 「玉壺春」という名前は、唐代以降の詩や詞の中に「玉壺春」や「玉壺春酒」という語句を見つけることができ、いずれも酒の種類・銘柄として記されています。古来中国では「春」字はしばしば酒の名に用いられており、古典籍の中には「玉壺春」ほかにも「土窟春」「石凍春」などの酒名が見られ、酒好きで知られる李白の詩中にも「金陵春」「大春」「老春」などの酒の名前が登場しています。「玉壺春瓶」が酒の名にちなんでつけられた器種名だとすると、その用途は酒器であったと想像されます。実際、中国元代の墓葬壁画には、宴会の場面の中で、瓶が机上に置かれたり、従者に抱えられて描き出されており、元代においては、玉壺春瓶は酒を蓄え注ぐための容器として用いられていたことが明らかになっています。下膨れの腹に細い頸、ラッパ型に開く口を持つのが特徴です。玉壺春瓶は宋代より陶磁器の新しい器形として現れ始め、宋、元の時期に広く流行し、定窯をはじめ、汝窯、耀州窯、景徳鎮窯、磁州窯といった窯場では必ずといってよいほど製作されたそうだ。元代・明代と時代が下るにつれ、すらりとしたシャープな形から太く重厚感のある形へと変化していきます。柔和な曲線が生み出す効果を充分に意識した、見事な造形感覚。その優れた造形性は強く人々の心をとらえ、元、明を経て清代に至るまで、非常に長い期間にわたって製作され続けました。 ◇写真: モンゴル帝国・元 1206年~1635年【青花玉壺春瓶・宮廷御用磁器】(日本では鎌倉~江戸初期、およそ800年前)

【蒲纹相叠纹玉璧・宮廷御用品】

中国・戦国晩期~西漢時代

【蒲纹相叠纹玉璧・宮廷御用品】

「玉(ぎょく)」 中国では新石器時代からはじまり現在に至るまで、「玉(ぎょく)」と総称される研磨すると美しい光沢を示す石材を非常に愛好されてきました。特に好まれたのは、ホータン(新疆ウイグル自治区和田)で産出される美しいネフライト(軟玉)で、中でも白玉(白色ネフライト)が珍重されていました。ネフライトという岩石は、宝石のヒスイ(翡翠)の一種としても知られていますが、実はヒスイと呼ばれる岩石には2種類あります。一つはヒスイ輝石(ジェダイト)、もう一つがこのネフライトです。これらはよく似ていますが異なった岩石で、硬さが違うことから、前者が硬玉、後者は軟玉と呼ばれることもあります。現在、一般に宝石の一種として珍重されるのはヒスイ輝石の方ですが、古代中国で特に珍重されたのは後者のネフライトでした。現存最古の字書である「説文解字」には、玉は「石の美にして五徳あるもの」とされ「仁、義、智、勇、潔」を持つとして説明されており、単なる鉱物としての魅力ではなく、敬意が込められた特別な存在として扱っています。また、玉の愛用された背景に「玉は神秘的な力を具えている」との認識が存在していたことが分かりました。その力とは、 (1)不老長寿になれる (2)身が軽くなり、神仙になれる (3)遺体の腐敗防止 (4)不吉なもの(悪霊など)を寄せつけない (5)潤いを与える (6)生命力の源が濃縮されている   いずれの効果も、玉が「活発な生命力の塊」と見なされた故に期待されたものであると思われます。 ◇写真:中国・戦国晩期から西漢時代 紀元前770年~220年 【蒲纹相叠纹玉璧・宮廷御用品】(日本では弥生時代、およそ2000年前)

【供御免毫盏】(建窯)

中国・宋

【供御免毫盏】(建窯)

「健窯」  中国・南宋時代(12~13世紀)に、福建省の建窯(けんよう)で焼かれた黒釉の碗を建盞(けんさん)と呼びます。盞は小さい茶碗の意。 唐代から流行した喫茶の習慣を受け、宋代には黒釉の茶碗を専門に焼く窯として発展を遂げました。当時賞味された高級茶は白色の固形茶でしたので、茶の白さを引き立たせる黒釉の茶碗が好まれたのです。この種の碗は日本では天目と呼ばれ、茶道具として珍重された。建窯の碗は黒みがかった陶質の胎土に黒釉を掛けたもので、表面に茶色や銀色の線状の文様が現れるものが多い。これを中国では兎の毛という意味の兎毫斑(とごうはん)といい、日本では禾目天目(のぎめてんもく)と呼んだ。銀色の文様が丸い斑点状に一面に現れたものを油滴天目といい、大量に焼かれた建盞のうち、窯内で偶然、大小の斑文と、斑点の周囲に瑠璃色の虹彩が現れたものは曜変天目という。曜変天目は特に稀少なもので、現存するのは日本にある3碗だけだとされている。天目茶碗には、口縁部が強く反るタイプのものと、あまり反らないタイプ(いわゆる天目形)の2種類がある。 ◇写真:中国・宋 960年〜1279年 【供御免毫盏・宮廷御用磁器】 (建窯)(日本では平安時代、およそ900年前)

【珍珠地人物紋盤口尊】(磁州窯)

中国・宋

【珍珠地人物紋盤口尊】(磁州窯)

「磁州窯」 五代時代末期から近代の窯。窯跡は、河北省、北京市、河南省、安徽省、山西省、山東省、陝西省に広く分布し、磁州窯系と総称。灰色の胎土に白化粧を施し、透明釉をかけて焼成するのが基本的な技法。唐~宋時代、希少な白い磁器土を使う白磁は高級品でした。本来は鉄分が多く、焼くとグレーになってしまう粗悪な陶土を使って、高級な白磁の色味に近づけようと行われたのが白化粧の技法です。磁州窯の陶器を特徴づけるのは、泥状に溶いた白土を器の素地に掛けて白い器面(白地(しろじ))を作る「白化粧(しろげしょう)」と多量の鉄分によって発色する黒釉や鉄絵具(てつえのぐ)の技術、そして器面を彫り込んで化粧した表面と下地の色彩のコントラストによって文様を浮き立たせる掻落(かきおと)しや白地線彫りの装飾技法です。さらに北宋中期以降には白地に鉄絵具を塗って掻落す「白地黒掻落(しろじくろかきとし)」や鉄絵具で直接文様を描く「白地鉄絵(しろじてつえ)」が登場し、白黒の強いコントラストの装飾へと発展しました。 磁州窯で作られた白化粧と黒釉の陶器(白地陶器と黒釉陶器)は、生産コストの安さ、技術的模倣の容易さ、色彩のコントラストを強調した美しさなどから華北一帯へと広まっていったのです。 文様装飾は白無地、白地掻落、白地黒掻落、白地鉄絵、白地紅緑彩、黒釉、翡翠釉など多彩で、器種も豊富。金時代以降は、筆彩で文様を表す白地鉄絵などが主流となる。陶器であるだけに器形は厚手で磁器とは異なり、鋭利な美しさと言うよりは温かみの有る雰囲気が醸し出され大きな魅力となっている一方、中国陶磁の最高峰と評価の高い「宋磁」の一角を占める名品も遺されて、我国でも古くから愛好されている。 ◇写真:中国・宋 960年〜1279年 【珍珠地人物紋盤口尊・宮廷御用陶磁器】(磁州窯)(日本では平安時代、およそ900年前)

【ニ系尊】(越州窯)

中国・西晋

【ニ系尊】(越州窯)

「越州窯」 中国の浙江省慈渓市やその周辺で発達した東洋最古の磁窯、およびそこで作られた青磁。この地方が戦国時代の越(えつ)の国に属するところから越州窯の名がつきました。1000年以上の歴史を誇り、東洋最古の磁窯だと言われています。浙江省蕭山(しょうざん)県や紹興県で初期の灰釉陶器(かいゆうとうき)を焼いた窯が二十数か所発見されています。後漢の時代になり急速に陶技を高めて、作風、釉調など類似するものが多く、器形も漢銅器などを模倣し、透明な青磁釉をかけたもので「古越磁 (古越州窯) 」と呼ばれる。その後、西晋時代・3世紀末ごろに青磁は著しく発展して完熟したが、六朝後期には作られる作品数が減っていき、隋唐時代には低迷期に入ります。しかし、9世紀ごろになると新しい越州窯が登場。再び作品が作られるようになります。五代時代には、呉越王銭氏の庇護のもとに盛行した越州秘色窯 「秘色(ひそく) )」が存在し、上品で優雅な青磁が作られましたが、11世紀中ごろに衰退。浙江省南部にあった龍泉窯が抬頭するにつれて越州窯は衰退していった。 「青磁」と呼ばれる鮮やかな青色をした焼物とは異なり、素地は灰色で釉(うわぐすり)は緑がかった灰褐色。明るいものから暗いものまで、さまざまな色味があることも特徴です。主にお椀や水注(茶道で使用される水をつぎ足すための道具)、合子(ふた付きの小物入れ)などが作られていました。 中国において青磁が大量生産され社会に普及する魁となったのはこの越州窯でした。 ◇写真: 中国・西晋/ 265年~316年【ニ系尊・宮廷御用陶磁器】(越州窯)(日本では古墳時代、およそ1750年前)

【粉青釉盤口魚耳尊】(竜泉窯)

中国・宋

【粉青釉盤口魚耳尊】(竜泉窯)

「きぬた‐せいじ【砧青磁】 龍泉窯青磁」中国最大の青磁窯。浙江省南部に開窯し,北部の越州窯青磁の系譜を受けつぎ,北宋,南宋,元,明,清,そして今日にいたっている。龍泉窯青磁は、大きく分けると、南宋から元の初期(1127年~1279年)に作られ日本人に最も愛された青磁といえる「砧青磁」と、元の時代から明の初期(1279年~1368年)に焼かれた「天龍寺青磁」、そして明からその後の清王朝初期(1368年~1644年)にかけて生産された「七官青磁」の3種類。「青磁」と呼ばれているのは、文字どおり色が青いためである。それまで茶褐色が当たり前だった焼物を「青磁」に変えたのは北宋8代目の皇帝である徽宗皇帝。芸術的感性に秀でた徽宗皇帝は、あるとき雨上がりの空を指し示し「あの空のような焼物を作れ」と命じた。陶工たちは釉薬に宝石を混ぜるなど工夫を凝らし、青磁を開発。北宋の後を継いだ南宋の龍泉窯を中心に多くの青磁が生産された。青く澄みきった粉青色の青磁釉が厚くかかった絶妙な砧青磁は薄手の青磁で、優しくやわらかな見事な発色となっている。造形も簡素ながら洗練されていて,きわめて上質な感覚を与える。文様を施さないものが多い。青磁は鉄の呈色である。酸欠状態で窯をたくと、釉に含まれる酸化鉄が還元されてこの色になる。緑か青かは、チタンなどの微量成分の多少による。当時の職人には、人知を超えた作用だったろう。中国国内ばかりでなく,日本や東南アジア,西アジアにも広く輸出された。◇写真:中国・宋/ 960年〜1279年【粉青釉盤口魚耳尊・宮廷御用磁器】(竜泉窯)(日本では平安時代、およそ900年前)

【漢詩文白磁】

韓国・李朝

【漢詩文白磁】

「李氏朝鮮時代 (1392-1910)」李朝になると青磁に代わって、粉青沙器が中心になる。粉青沙器は灰色の胎土の上に白土を用いてさまざまな技法で装飾を施した陶器の総称。高麗時代と比べて産地は大きく拡散します。15世紀には象嵌や菊花文のスタンプを一面に押しそこに白土を埋めた印花という技法が盛んになる。その後、刷毛を用いて白土を塗った塗跡がそのまま装飾になる刷毛目や、器表全面に塗られた白土を削り取って模様をあらわす掻落しの彫三島などが作られた。李朝白磁は、中国の元末明初の白磁の影響を受け、15世紀には生産され始めた。高麗時代にも極めて少数の白磁が焼かれていたが、それは軟質の胎土を用いており、 李朝に至って本格的な硬質胎土による堅牢な白磁となった。李朝白磁の魅力は、潤いのある純白、淡青色や象牙色を帯びた白、やや失透性の乳白色、灰色がかった堅い感じの白など、その千変万化の白の多様性にある。しかも、一つ一つの白磁が天候や時刻で表情が違って見えるばかりでなく、 見る者のこころのありようによっても変貌する。悲しみに満ちているときには慰めとなり、喜びのときには語り合う友の役割をしてくれる。これこそ李朝白磁の魅力の神髄ではないだろうか。白磁の釉下にコバルトを顔料として青い文様を描く青花は、元時代の14世紀に完成され、李朝でも15世紀以降に焼成されていく。回回青と呼ばれたペルシャ由来のコバルト顔料は希少で入手困難であったため、奢侈を諫める儒教の精神からも青花白磁の流入と使用を国法で禁じたこともあった。このコバルト顔料の希少性から、白磁の肌に楚々とした草花文様を描き、余白を広く残した“秋草手”と呼ばれる青花白磁が、金沙里で誕生した。コバルトの代わりに鉄顔料を用いて褐色の文様を描く鉄砂も15世紀から生産されており、18世紀からは銅を呈色剤とした赤い文様の辰砂も登場した。高麗と李朝の陶磁器に共通する魅力は、それらの造形における曲線の美しさにある。中国陶磁のもつ幾何学的で端正な曲線ではなく、有機的で生命のゆらぎを秘めたやわらかな曲線が美しい。◇写真:韓国・李朝/1009年~1225年【漢詩文白磁】(日本では安土桃山時代、およそ650年前)(日本では平安時代~鎌倉時代、およそ900年前)

【粉彩花卉蒜头瓶】

中国・清(光绪官窯)

【粉彩花卉蒜头瓶】

「大雅斉」 清朝 光緒時代(こうちょ)(1875~1908)は、光緒帝は幼少のため、西太后が権力を握って政務をとりました。光緒二十年(1894)には、日清戦争、光緒二六年には世界列強八カ国の連合軍による北京占領・略奪。国威の失墜はもちろんのこと、財政的にも破産状態となり、とても官窯の運営どころではない筈ですが、西太后などの皇室用のために前時代以上に官窯が活動しておりました。西太后は巨額な費用を磁器に投じました。 大雅斎款の磁器は西太后自らが焼かせたもので「大雅斎」を書き入れてある。大雅斎とは居室名である。(「斎」の字は「房」と同様に「部屋」を意味する)◇写真:中国・清(光绪官窯)/ 1871年〜1908年 【粉彩花卉蒜头瓶】永庆长春",是清末光绪时期官窑瓷器吉语款,清慈禧太后制瓷名"大雅斋",旁有"天地一家春"印章,底有"永庆长春"4个字,亦有"大雅斋"款字在底。(日本では明治時代、およそ150年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

「織部焼」

日本・桃山時代

「織部焼」

「織部焼(おりべやき)」 織部焼(おりべやき)は、桃山時代の慶長10年(1605年)頃、岐阜県土岐市付近で始まり元和年間(1615年-1624年)まで、主に美濃地方で生産された岐阜県を代表する陶器。美濃焼の一種ですが、志野焼の後に造られました。美濃出身の武人で千利休の弟子でもある茶人の古田織部(ふるたおりべ)の指導で創始された陶器で、歪な形、派手な文様、味わい深い暗緑色といった斬新なスタイルが特徴的です。 千利休は渋みのあるシンプルな「詫び寂び」な器を好んでいましたが、その弟子である古田織部は利休の好みとは正反対といえる好みをしており「織部好み」で作られた織部焼は、ほかの焼物にはない自由で豪快なフォルムや奇抜な文様(市松模様、幾何学模様)が特徴となっています。 安土桃山時代は南蛮貿易が盛んに行われた時代でもあり、色鮮やかな渡来品が人々の目を楽しませていた時代でもあったため、従来の茶碗とは全く違うファッショナブルな織部焼は「粋」な人々に愛されたようです。 織部焼といえば暗緑色の「青織部」が有名ですが、鉄分の多い赤土を素地とした「赤織部」、文様のない器全体を黒釉が包み込んだ「織部黒」、窓絵といわれる文様がついた織部黒ともいえる「黒織部」など10種類に分類できます。一般に「織部釉薬」といった場合は、透明釉薬に酸化銅などの銅を着色料として加え酸化焼成したものを言う。 織部焼は、江戸時代ごろまでは茶碗のほかに皿やとっくりなどの食器も盛んに作られていましたが、江戸時代以降は徐々に勢いを失い始め、1615年に創始者の古田織部が切腹したこと、寛永年間に入って古典的な青磁が復興したことの影響をうけ、姿を消してしまいました。 日本・桃山時代~江戸初期 1573年~1868年 【織部小鉢】  (およそ450年前)                                                       

【京薩摩 金彩色絵獅子香炉】

日本 江戸後期

【京薩摩 金彩色絵獅子香炉】

「京薩摩(薩摩焼)」 九州の薩摩を中心とした薩摩焼(本薩摩)は、桃山時代のころより始められ、幕末の頃には金彩の美しい絢爛豪華な焼き物が作られるようになりました。1867年に薩摩藩がパリ万博に出品した薩摩焼が絶賛されると、近代日本の近代化を進めていた政府にとって、薩摩焼の輸出は大きな役割を満たす重要な商品となります。 こうして欧州からの需要が大きくなった薩摩焼。九州にとどまらず、東京や京都、神戸や金沢など、各地でも薩摩焼風の商品が焼かれるようになります。その中でも京都の三条粟田口の窯元が有名で、明治期に京都で製作された、薩摩金襴手様式の陶器のことを京薩摩といいます。貫入のある黄みを帯びた素地に、特別に豪華な金彩色絵をほどこした、細やかで華やかな薩摩焼。西洋でSATSUMA と呼ばれたこうした陶器は、幕末・明治の万国博覧会で高い評価を受け、西洋の人々の間で一種のブランドとなっていました。古くから培われてきた職人の技術と、西洋との出会いによる意匠や釉薬の変革が融合し、歴史上類を見ない絢爛豪華な作品が生み出されました。鹿児島で作られた「本薩摩」と比べて、より繊細で雅やかなところが特徴で、文化の拠点だった京都ならではの美的センスが活かされた美しい構図でたちまち欧米人達を虜にし、一時期は生産量で本薩摩を凌ぐ程でした。こうした欧州市場への輸出目的で生産され始めた京薩摩は海外で絶賛でしたが、欧州での大戦事情や、日本の急速な工業化の推進によって工芸に携わる人員の工業シフト化などによって急速に衰退し、昭和の頃になると日本でも戦端が切られ、かつて盛況だった栗田口の窯も可動する事はなくなり、京薩摩の伝統や技術は次の担い手に殆ど受け継がれる事なく途絶えてしまいました。 ◇写真: 日本 江戸後期/1603年~1867年【京薩摩 金彩色絵獅子香炉】(江戸後期 およそ400年前)

【黄地珐琅彩花鸟图纹盘】

中国・大清(乾隆官窯)

【黄地珐琅彩花鸟图纹盘】

「粉彩と琺瑯彩(ほうろうさい)」 清時代 康熙、雍正、乾隆の三代は陶磁の全盛期でした。康熙年間末期には粉彩という新技法が開発されました。これは西洋の七宝の技法を磁器に応用したもので、石英の粉末と鉛を混ぜたものを基礎に、さまざまな色料を用いて絵画的な図様を器面に描くことができるようになる。白色についても、従来の白の素地に透明釉を掛ける方法ではなく、白色顔料による不透明な白色を得ることができるようになりました。粉彩と同様の技法を用いたものに琺瑯彩と呼ばれるものがあります。粉彩と琺瑯彩は基本的には同じ技法であるが粉彩が整形、焼成から上絵付けまで一貫して景徳鎮で行ったものであるのに対し、琺瑯彩は景徳鎮で作った磁胎に、内務府造弁処という役所に属する琺瑯作という官営工房で絵付けを施したものである。琺瑯作での絵付けには宮廷画家も動員され、中国絵画が磁器の器面に再現されることとなった。琺瑯作では、初期の作品には素焼き(無釉)の磁胎の上に直接絵付けをしていた。これは、透明釉の釉上に琺瑯彩で絵付けをする技術がまだ開発されていなかったためである。雍正年間の作品では技術の進歩により、透明釉の上に絵付けが施されている。琺瑯作の作品が小品の碗、皿を主とするのに対し、景徳鎮窯で作られた粉彩では大型の瓶なども作られている。また、景徳鎮の粉彩では、一つの器に従来の五彩の顔料と粉彩の顔料がともに使われるが、琺瑯作の作品ではそうしたことはほとんどない。 当館では数多く粉彩及び琺瑯彩を展示しております。他では見られない大型の瓶もございますので、是非御覧ください。◇写真:中国・大清(乾隆官窯)/1736年〜1796年 【黄地珐琅彩花鸟图纹盘】(日本では江戸時代後期、およそ300年前)

「象牙彫刻」

日本

「象牙彫刻」

「象牙彫刻」 象牙彫刻(ぞうげちょうこく)は、象牙(きば状に伸びたゾウの門歯)を、一般に機械または手動で鋭利な切削工具を使用して彫刻することである。象牙はゾウが生きているかぎり成長を続け,大きなものは長さ3m,重さ90kgに達する。乳白の柔らかな色調ときめの美しさにくわえて,適度な粘りがあり、欠けにくく、固すぎず柔らかすぎず適度な吸湿性があるので細かな彫刻として古くから世界各地で工芸品の素材として珍重されてきた。ヨーロッパの旧石器時代の遺物には,マンモスのきばに人や動物の像を刻み,投槍器のような道具を製作した例が多数見いだされる。エジプト,西アジア,インド,中国などに栄えた古代文明は,それぞれに独自の技法と様式を発展させ,すぐれた美術工芸品を残している。人類は先史時代から象牙を装飾的に彫刻してきたが、19世紀にアフリカの内部が開放されるまでは通常、高級品に使用される、希少で高価な素材であった。なお1990年から、アフリカゾウの象牙の国際取引はワシントン条約により原則禁止となっている。 ◇写真:本象牙一本彫〔寿老神〕 象牙彫刻の巨匠【小針雅生】作 系図 高村光雲ー平櫛田中ー小針敏生ー小針雅生 略歴 象牙彫刻38年、象牙彫刻研究会を結成し 信生、樹生の代表作家の作品を世に出し 企画・造形・合作・育成と幅広い彫刻に努める。初代会長。 象牙を用いた小針雅生の作品は、実に精巧で思わずため息が出てしまうほどの美しさを持っており、多くのファンを魅了してきました。小針雅生の作品には「雅生」の文字が刻まれており、共箱と呼ばれる作品を収納する木箱と一緒になっている事が多いのが特徴です。

【斗彩葡萄紋杯】

中国・明

【斗彩葡萄紋杯】

〈大明成化1368年~1644年〉成化時代(1465‐87) 紙のように薄い胎の上に赤や緑、青で絵付を行った〈豆彩〉が生まれ,遺品は世界で数十点しかないといわれている。明代後期の嘉靖・万暦期(1522‐1619)に景徳鎮窯の生産は頂点を迎えました。この技法はまず、景徳鎮の白色胎土(きめが細かく純白に近い白色の土)で成形した素地の上に淡い細い線の青花で文様(花、小鳥、蝶々、鶏など)の縁取りをします。青花で文様の輪郭を描いた後、透明の釉薬をかけて高温(1300℃)で焼成します。 それから、青花の輪郭に沿って各種(赤、緑、紫、黄、青など)の上絵を丁寧に塗り分けます。色(彩釉)を塗って青花の輪郭を埋めます。 それからまた焼き付けます。今度は低温(800℃)で焼きます。 こうして青花の淡い発色と、上絵のカラフルで鮮明な色調のコラボレーションが美しい磁器を完成させる。豆彩が完成した成化時代にはまだその名称ではなく、一説によると「成化五彩」と呼ばれていたようです。斗彩と呼ばれるようになったのは、清の時代、雍正(1723-35)と乾隆(1735-1795)の間とされています。◇写真:中国 明/大明成化1368年~1644年【斗彩葡萄紋杯・宮廷御用磁器】成化是明朝时期第八位皇帝明宪宗朱见深的年号。起止时间为成化元年(1465年)至成化二十三年(1487年)共使用23年。明宪宗朱见深于天顺八年(1464年)登基, 次年(1465年)改元“成化”。(日本では室町時代、およそ600年前)

【青磁刻花纹小盘】

韓国 ・高麗

【青磁刻花纹小盘】

「高麗(こうらい)時代〔918~1392年〕」高麗時代になると、朝鮮半島で本格的に磁器が焼かれるようになり、青磁と白磁が焼かれました。磁器のなかでも青みがかった色の釉が使われる「青磁」を中心に進歩を遂げ、やがて「高麗青磁」と呼ばれるようになりました。この青磁はすでに高度な陶磁器焼成技術を保有していた朝鮮陶磁が、中国の浙江(せっこう)省北部に広がる五代越窯(えつよう)の影響によって始まったと考えられている。中国青磁の「秘色」と呼ばれていた青に対し、「翡色」と呼ばれる澄んだ青緑色の気品に満ちた、絶妙な青色の高麗青磁を完成させ、透かし彫りなどのさまざまな装飾が加えられるようになりました。朝鮮独特の技法である象嵌(ぞうがん)技法が発達し、高麗青磁の中心的な装飾技法となり、「陶磁器芸術の最高峰」とも言われています。象嵌とは素地に文様を彫り、その凹部に黒土と白土を埋め込んで文様を表すもので、 もともと金属の装飾技法でした。青磁象嵌が獲得した青い釉下の白黒文様の鮮明さと端麗さは、高麗青磁の声価を不動のものにしました。中でも、その美しく密やかな釉色を最大限に利用した精妙な刻文のある青磁は、最盛期の作として評価が高い。こうした高麗青磁の二大生産地として有名なのが、南西部に位置する康津(カンジン)と扶安(ブアン)です。また、線刻や彫刻などの装飾が行われた青磁も作られたほか、銅を含んだ顔料を用いることによって上品な紅色を発色する辰砂という技法や、釉下に鉄絵具で文様をあらわす青磁鉄絵も盛んに作られた。磁器らしい繊細さと華やかさ、滑らかな肌の風合いが特徴的で、朝鮮半島はもちろん中国でも「天下一」と呼ばれる名品が数多く作られた高麗青磁ですが、13世紀以降にモンゴル人の侵入が始まり、高麗青磁は高麗王朝の衰退と共にその姿を消し、実用的で大量生産にふさわしい、灰色を帯びて堅く焼きしまった姿へと変っていきました。◇写真:韓国 高麗/918年~1392年 【青磁刻花纹小盘】高麗王朝、朝鲜半岛古代国家之一。紀元918年,王建が王に。935年に新羅と合併し、936年に後百済を滅し“三韩統一”を実現した。高麗は今の朝鲜が都に!国土範囲は今の朝鲜半岛中南部相当。(日本では平安~室町時代,およそ1100年前)  

【明洪武・釉里红花卉纹大罐】

中国 明・洪武

【明洪武・釉里红花卉纹大罐】

〈1369〜1402年〉「釉裏紅」元代には顔料にコバルトを用いた青花のほか、銅を用いて赤く発色させた釉裏紅(ゆうりこう)も作られました。しかし、銅は気化する温度が低く、窯の中の温度が高くなり過ぎればすぐに蒸発してしまいますし、逆に低すぎれば、黒っぽくなってしまいます。また、焼成中に供給する酸素量も大変重要で、酸素を与えない還元焼成なら「赤色」に、酸素を与える酸化焼成なら「緑色」に発色します。銅を顔料に用い、焼き物を綺麗な紅色に発色させる事は大変困難な事で、元時代の釉裏紅はややくすんだ赤に発色したものが多い。西アジアとの交流が栄えた元の時代、青色に発色する「コバルト」が安価で大量に持ち込まれ「青花磁器」が盛隆を極めます。しかし、元王朝の滅亡と共に良質のコバルトの流通量が減り、仕方なくどす黒い発色の「国産コバルト」が使われました。その汚い発色に満足できなかった明初期洪武帝官窯において、試行錯誤の末に紅色の綺麗な焼き物が誕生しました。◇写真:中国 明・洪武/1369〜1402年【明洪武・釉里红花卉纹大罐】(日本では安土桃山時代、およそ650年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【黄釉双龙戏珠纹素三彩大盘】 (康熙官窯)

中国・大清

【黄釉双龙戏珠纹素三彩大盘】 (康熙官窯)

〈1616年~1912年〉皇帝専用の文様  「五爪の龍」中国の明から清時代までにおいて中国では龍の爪の数に対する明確な決まりが存在しました。 明の初代皇帝は元の規則(五爪二角の龍文が皇帝専用の文様として規定。五本の爪をもち、頭に二本の角をはやした龍が権力のシンボルとして定めた。)を踏襲し、皇帝の象徴である龍は5つの足の指(または爪)。帝国の慣習としての貴族や高級官吏へ向けられた龍は4つの爪を持つと定め、3つ爪の龍は下級官吏や一般大衆に愛用された。(様々な明朝の唐物で広く見られる)。皇帝を除いたいかなる人物でも、完全に金色な5つ爪の龍を利用するのは死罪であった。適切な爪の数や色を利用しなかった場合、罪人の一族もろとも処刑するに値する反逆罪とされた。こうした規制にも関わらず、龍文は一般庶民にも人気がありました。明末清初には密かに焼かれた民間窯製の5つ爪龍文が出回っており、乾隆帝は龍文の独占を諦める詔を出しました。 「素三彩」素三彩は、釉薬(ゆうやく)をかけずに素焼(すや)きした白磁の素地(これをビスケット地と通称する)に、直接低火度の色釉を用いて文様をあらわす技法である。深みのある色調とやわらかい描線に特徴がある。赤色釉を除いて、緑・黄・紫などの色で、絵や文様を描いたもの。怪獣が最も珍重され、大物がこれに次ぎ、花鳥は普通だがこれもまた価値は高い。素三彩の大瓶は欧米で愛好され、黒地のものをブラック・ホーソン、緑地のものをグリーン・ホーソンと称する(ホーソンはサンザシの意)。中国、明代後期に始まり、清代に盛行した陶磁器。中国清代の康熙年間(1662-1722)に多く産出された。◇写真:中国・大清/1616年~1912年【黄釉双龙戏珠纹素三彩大盘】 (康熙官窯)1662年5月4日(康熙元年~1722年12月20日康熙61年)(日本では江戸時代、およそ400年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【斑唐津徳利】

日本・桃山時代

【斑唐津徳利】

〈1573年~1603年〉「斑唐津」斑唐津は室町時代後期、1580年前後から1590年前半に佐賀県唐津市北波多稗田で焼かれていたやきものです。1594年以降一時途絶えましたが、昭和初期の唐津焼復興と共に再びその姿を見せるようになりました。唐津焼の一種で白濁した藁灰釉(わらばいゆう)を用い、藁灰釉の表面が斑状になることから斑唐津と呼ばれており、色は白からグレーがかったものまで幅広いのですが、全体的に不透明な白いやわらかい肌を作り出します。青や黒の斑点は粘土に含まれている鉄分や燃料の松灰が器の肌に溶け出している為であり、藁灰の斑文の中でアクセントになっています。味わい深く温かい肌味が魅力で、昔から高い評判を得ている酒器をはじめ皿や碗、茶入などによく使われています。◇写真:日本・桃山時代/1573年~1603年 【斑唐津徳利】(およそ440年前) ※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【青花五彩花果寿桃纹梅瓶】(乾隆)

中国・大清

【青花五彩花果寿桃纹梅瓶】(乾隆)

〈1736年〜1796年〉「五匹の蝙蝠(こうもり)」 〔五福〕 ・長寿 ・富裕 ・健康 ・繁栄 ・子孫 人生の五つの幸せを願う吉祥文様 文様化され実に美しく書かれています。一見コウモリに見えないですが、よくよく見ると左右に翼を広げ丸い目をしたコウモリです。◇写真:中国・大清/1736年〜1796年【青花五彩花果寿桃纹梅瓶】(乾隆)(日本では江戸時代後期、およそ300年前)

【志野香合】

日本・江戸初期

【志野香合】

〈1603年~1868年〉「志野焼」志野焼(しのやき)は、美濃焼の一種で、室町時代の茶人・志野宗信が美濃(岐阜県)の陶工に命じて作らせたのが始まりとされ、安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物。赤志野や鼠志野などいくつかの種類があり、同じく美濃焼の一種である瀬戸黒とともに重要無形文化財に指定されている技法や、岐阜県の重要無形文化財に指定されている技法があります。美濃焼きの土は、可児市久々利から土岐市泉町久尻にかけて産出される白土が使用されています。耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土、もぐさ土という、鉄分が少なく、紫色やピンク色がかった白土が使われており、その白土を使用した素地に、志野釉と言う長石を砕き精製した白釉を厚めにかけて焼かれます。釉薬がかかった部分はぽってりとした厚みがあり、きめの細かい貫入や、味わい深い柚肌、優しい乳白色をしており、釉薬のかかりが少ない縁の部分などは赤みのある火色が見え、 白磁や青磁のような美しさを持ちながら、優しい温かさを持っていることが特徴です。さらに、これまで円形の茶碗が常だったものに歪みを作り変形させたことも当時は非常に新しい製法でした。◇写真: 日本・江戸初期/1603年~1868年【志野香合】 (およそ400年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【不動明王】

モンゴル帝国・元

【不動明王】

〈1202年~1368年〉不動明王は、元々はインド神話の三大神の一人であるシヴァ神の別名とされ、その梵名はアチャラナータと言います。その意味は「動かない(不動)守護神」です。日本へは空海によって持ち込まれ、密教の最高位である大日如来の化身とも言われています。不動明王は一面二臂で降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る、片側中央の刃だけが一際長い三鈷杵)と羂索(けんさく/けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り吊り上げてでも救い出すための投げ縄のようなもの。一方の端には環、他方の端には独鈷杵の半分が付く)を持つのを基本としている。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。不動明王像の中には背中に火を背負っている物もあります。煩悩を焼き払う為の洗浄にして神聖な炎です。迦楼羅(かるら)炎と言い、鳥の頭部を持った神、迦楼羅(インド名ガルーダ)の吐き出す炎だそうです。煩悩や迷い、仏敵などを焼き払う為の物。一般的な仏教でのご本尊や仏像は優しい姿をしたものが多いですが、不動明王は悪を絶ち仏道に導くことで救済する役目を担っていることから恐ろしい表情をしているとされていますが、迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる慈悲深い仏です。◇写真:モンゴル帝国・元/1202年~1368年 【不動明王】(日本では鎌倉時代~江戸初期、およそ800年前)

【双鱼纹香盒】(万歴官窯)

中国・明

【双鱼纹香盒】(万歴官窯)

〈1573年~1620年七月〉最も尊い色 「黄色」 中国において徳の高い色といえば黄色。これは皇帝しか使うことが許されていない色でした。「土=黄=中」、大地のシンボルカラーは黄色、中央を示すというところから国土の中心で統治する人が身につけるべき色が黄色となり、皇帝が使う色になりました。◇写真: 中国・明/1573年~1620年七月【双鱼纹香盒】(万歴官窯) 明神宗朱翊钧年号,明朝使用此年号共48年,为明朝所使用时间最长的年号(日本では安土時代~江戸初期、およそ540年前)

【龙鳳纹五彩大盘】(万歴官窯)

中国・明

【龙鳳纹五彩大盘】(万歴官窯)

〈1573年~1620年七月〉「五彩」五彩とは、白磁または白釉陶(はくゆうとう)に赤・青・黄・緑・紫などの釉(うわぐすり)で絵や文様を表したもの。素地に透明釉を掛けて高火度焼成した後、釉上に上絵具で図柄を描き、錦窯(きんがま)という小型の窯で再び低火度焼成した上絵付け、およびその陶磁器。1つの器に五彩と青花を併用する場合もあります。この技法は釉上着彩画法と言い、釉薬では色を付けず、絵具でなければいけません。五彩と呼ばれますが、五色のみを使っているわけではなく、単に同じ技法で焼かれているものであれば、二色でも六色でも五彩と呼びます。始まりについては、発掘調査などで元時代から生産された説が有力ですが、正確なところは現在もわかっておらず、調査が続けられています。五彩は近代に入り、多くの色彩が彩色され、色合いが鮮やかになりました。その美しさを競い合い、闘争している様子から、闘彩と呼ばれることもあります。嘉靖年間(1522~1566年)は五彩磁器の全盛期であり、色どりの様々な製品が作り出されていきました。官窯では白磁や青花磁に五彩を加えたもののほか、色地に色文様を加えた雑彩と呼ぶ濃麗五彩磁も作られました。日本では赤絵・錦手(にしきで)などと言います。硬彩。◇写真:中国・明/1573年~1620年七月【龙鳳纹五彩大盘】(万歴官窯)明神宗朱翊钧的年号,明朝使用此年号共48年,为明朝所使用时间最长的年号(日本では安土時代~江戸初期、およそ440年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【青花紋大碗】

モンゴル帝国・元

【青花紋大碗】

〈1206年~1635年〉「モンゴル帝国 元 青花」モンゴル人クビライの征服した帝国は北京を都とし、支配圏はユーラシア大陸全土に広がりました。モンゴル民族による交易、市場の確立は中国の陶磁器の名声を広めることになります。特にイスラム商人による陸路での行商が活発になり、福建の泉州、福州の港からの海上貿易も行われました。元王朝が領土を拡大し、イスラム圏から藍色に発色する良質のコバルトを手に入れた事により、青花(せいか)いう陶磁史上に残る画期的な発明がされました。生産が盛んになり、輸出磁器として、イスラム圏などの外国で競って求められるようになりました。青花は「青い文様」の意で、英語では「ブルー・アンド・ホワイト」、日本語では「染付」と称される。青花は釉下彩の一種であり、成形した器をいったん素焼きしてから、酸化コバルトを含む顔料で器面に絵や文様を描く。その上から透明釉を掛けて高火度で還元焼成すると、顔料は青色に発色する。西アジアから輸入されたコバルト顔料が使用されたことが分析結果から判明しており、この顔料を中国では「回青」または「回回青」(「イスラム圏の青」の意)。釉下彩の技法は、すでに唐時代の長沙窯に先例があるが、宋時代には中国陶磁の主要な技法とはなっていなかった。釉下彩磁が盛んになるのは元時代の景徳鎮窯からである景徳鎮窯は青花の技法を駆使して斬新な造形と意匠を残し、後代まで受け継がれています。元代磁器の特色の一つは大作が多いことで、径40センチを超える大盤(大皿)をしばしば見る。こうした大作主義は、輸出先である西アジアの需要に応じたものと考えられる。西アジアのイスラム圏では、円卓を大勢で囲み、大皿に盛った料理を各自が取り分けて食べる習慣があった。文様は伝統的な龍、鳳凰などのほか、人物図、牡丹唐草などの親しみやすいものが多く、大きな器面を目一杯使用して、あまり余白を残さずに文様を描き詰めたものが多い。主文様の上下や周囲に蓮弁文、如意頭文、波濤文などの従文様帯を配した構成には、西アジア美術の影響が看取される。人物文には当時の雑劇である「元曲」の場面を描かれているものが多い。◇写真:モンゴル帝国・元/1206年~1635年【青花紋大碗・宮廷御用磁器】(日本では鎌倉時代~江戸初期、およそ800年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【 古伊万里 赤玉龍 碗】

日本・江戸中期

【 古伊万里 赤玉龍 碗】

〈1603年~1867年〉「古伊万里」江戸時代に肥前(佐賀・長崎県)で焼かれた磁器が伊万里焼(古伊万里)です。江戸時代初めの1610年代ごろから江戸時代終わりごろ(明治期を含むことがあります)までつくられました。佐賀県の有田や塩田、長崎県の波佐見、三川内などで、主につくられ,塩田の製品は志田焼、三川内の製品は平戸焼ともいいます。この周辺で焼かれた磁器は、 近くにある港、伊万里港から出荷されたため伊万里焼と呼ばれます。伊万里焼と古伊万里の大きな違いは、作品そのものの持つ骨董的価値の有無であります。江戸時代に有田(佐賀県有田町)で焼成された歴史的、骨董的価値のある作品を古伊万里と呼び、明治以降に現在の佐賀県伊万里市で焼成された陶磁器のことを伊万里焼と呼びます。明治初期に焼き物を産地名で呼ぶようになり、現在の伊万里焼と呼ばれる陶磁器が誕生することとなりました。古伊万里は中国の王朝である明から清への時代変革時に発生した、欧州での中国磁器の断絶に代わる最良の品として欧州へと輸出されることとなりました。古伊万里はヨーロッパの王侯貴族達に愛され、今でもオールドイマリ(Old Imari)として世界中に熱烈なコレクターが存在します。◇写真:日本・江戸中期/1603年~1867年【 古伊万里 赤玉龍 碗】(およそ400年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

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