本館収蔵品紹介

【鳳纹粉彩大盘】

中国・清朝(康熙官窯)

【鳳纹粉彩大盘】

「清の鳳文」
鳳凰とは中国の伝説上の動物で、鳥の中で最も崇拝される霊鳥です。そして、吉祥や調和の象徴でもあります。めでたいことが起きる前兆で現れるとされた縁起の良い鳥の代表で、徳の有る天子(皇帝)が出現した時に表れ、雌雄が一緒に羽ばたいて共に鳴けば、天下泰平である証とされました。
雄のことを鳳(ほう)雌を凰(おう)と呼びます。
鳳凰は皇后の象徴とされ、龍文の次に位の高い文として扱われています。
鳳凰の姿かたちは、鹿や蛇、魚、燕つばめなどさまざまな生き物の集合体として表されます。五色絢爛で、羽に孔雀に似た五色の紋があり、五音の鳴き声を発するという。
甘い泉の水だけを飲み、小動物や虫など生きているものを食することはなく、60年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食べる。とまるのは梧桐(ごとう アオギリ)の木だけで、巣作りの際に草花を折るようなこともしないとされています。
龍と同様に殷・周期の青銅器の文様に表れた始まりから、時代を追うごとに変化を重ねます。清に入ると唐以来久しぶりに鳳凰に脚が描かれます。清の鳳凰の脚は唐の鳳凰と比べると華奢で長く羽毛が青海波文様のように規則正しく並べられ、長い尾は優雅に翻る様子が描かれています。 全体が繊細で美観の洗練が見受けられます。

◇写真: 中国・清朝(康熙官窯)
1616年~1912年(ほうおうもんふんさいおおばん)【鳳纹粉彩大盘】1662年5月4日(康熙元年~1722年12月20日康熙61年)(日本では江戸時代、およそ400年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【東漢绿釉双铺首陶壶・宮廷御用磁器】

中国・漢朝(原始青磁)

【東漢绿釉双铺首陶壶・宮廷御用磁器】

「緑釉陶器」
緑釉は低火度で溶けるので、陶器作りの初期的段階で一般的に作られました。中国で盛行したのは1~2世紀の後漢時代で、日本では奈良時代になって出現した。
中国の漢時代には彩色文様を施した加彩土器とともに、鉛を触媒とした緑釉陶・褐釉陶が墓への副葬に特化した器物「明器」として盛んに作られました。緑釉は銅を、褐釉は鉄を、それぞれ呈色材に用いています。酒壺の一種である壺はもともと青銅器であるが、漢時代には緑釉陶でもよく写され、ほかの器種の明器とともに冥福を祈って墓に副葬された。仮圏足、盤状口などの特色ある形状や、鋪首の形状から、後漢時代前期(1世紀)に製作され、典型的な緑釉壺であると位置づけられる。
銀化とは、透明釉の風化によって生じた薄膜の多層構造内で光が干渉しあって発生する構造色により金属的な発色を生じる現象で、銀化の状態は風化の程度により異なり、うっすらと虹色がかって見えるものから、ほとんど色彩を失い粉を吹いたように灰白化したものまでと様々で、白化した緑釉陶の中には出土品の玉器に似た風合いに見えるものもあります。土中による自然銀化は漢緑釉陶に顕著で、他の陶磁器ではあまり見られません。漢緑釉は当時の陶磁器としてはより艶やかで鮮やかな人工色で、灰陶・黒陶・加彩灰陶(彩陶)のみならず、施釉陶である灰釉陶に比べても艶やかな仕上がりでした。
漢緑釉陶は古代青銅器を模していたとされていますが、緑釉の艶やかな仕上がりや釉質がガラス質で色褪せや変色をしない点に着目すると、青銅器の緑青錆の色というよりは、玉器として磨き上げられた緑碧玉の質感に近いように思われます。漢緑釉陶は鉛釉陶の一種で、鉛釉陶は中国陶磁の生産技術にある種の革新をもたらし、漢時代に膨大な数量が焼成されました。

◇写真:中国・漢朝(原始青磁)
紀元後25年 ~220年(とうかんりょくゆうそうほしゅとうそん)【東漢绿釉双铺首陶壶・宮廷御用磁器】(日本では弥生時代、およそ2300年前)

【黄底花奔纹玉壶春瓶】

中国・清朝(乾隆官窯)

【黄底花奔纹玉壶春瓶】

「清時代(1616-1912)の陶磁器」
清時代の陶磁は、中国陶磁史の到達点・総決算と称されている。陶磁器生産の中心地は景徳鎮窯であった。明時代の万暦帝の死去後廃止されていた景徳鎮の官窯は康熙20年(1681年)頃に復活する。清時代には粉彩または琺瑯彩と呼ばれる、西洋の七宝焼を応用した絵付け法が開発された。琺瑯彩は七宝焼と考えてよいのだが、さらに中国の絵付け技法を融合させて中国独自の琺瑯彩がつくられた。粉彩は、美しい白磁の素地を活かして、色ガラスの粉末に鉛粉を混ぜて顔料を作っていくこともあって、絵付けの段階で仕上がりの色調が把握できることが大きな特徴である。そのため、絵画と同様に絵付けを施すことが可能となり、官窯において宮廷画家なども動員がなされ、陶磁器に絵付けが行われるようになる。粉彩の技法を施したもののうち、宮廷の内務府造弁局の琺瑯作で絵付けされ、ガラス顔料で上絵銘を記したものを「琺瑯彩」、景徳鎮窯で全ての工程を仕上げ、青花銘を記したものを「粉彩」と呼び分けています。東洋の釉上彩色は、水彩画や日本画のように彩料をニカワ・フノリで溶いた水溶(みずとき)で、それに対し西洋式では油彩画のように乾性油・不乾性油を混合する油溶(あぶらとき)と異なる性質を持ちます。粉彩はこの二つを併用し複数回の焼成を重ねる、非常に技術力と時間のかかる技法である。絵具の濃淡を活かした精細な描写で文様を描いており、繊細な筆致で活き活きとした様子が表されるなど、見るものを虜にしてくれます。当館では数多く粉彩及び琺瑯彩を展示しております。他では見られない大型の瓶もございますので、是非御覧ください。

◇写真: 中国・清朝(乾隆官窯)
1736年〜1796年(おうていかべんもんぎょっこしゅんびん)【黄底花奔纹玉壶春瓶】(日本では江戸時代後期、 およそ300年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【天龍寺青磁 刻花紋梅瓶・宮廷御用磁器】

モンゴル帝国・元朝(龍泉窯)

【天龍寺青磁 刻花紋梅瓶・宮廷御用磁器】

「天竜寺(てんりゅうじ)青磁」
天龍寺青磁とは、中国浙江省の龍泉窯で元代後期から焼かれた青磁。
光沢のある濃い緑色の青磁釉がどっぷりとかけられた堂々たる青磁である。厚手に作られ、大皿(大盤)、大壺、梅瓶など大型作品も多い。
東南アジアなどに、大量に輸出されていました。
名前の由来は、室町時代、足利尊氏が始めた、貿易船の「天竜寺船」
や、京都の天竜寺に伝わる青磁の牡丹文貼付の香炉に、由来するとの説があります。
砧青磁に次ぐ品質であり、浮き牡丹文などの刻文や、貼り付け文のある物も多く、装飾に主眼を置いた、新しい作品とも言えます。
景徳鎮窯の染付磁器と同じ様式を備え、元代ならではの時代色を強烈に表現した天竜寺手(で)の青磁は、元代後期の14世紀から明中期の15世紀まで盛んに焼造された。

◇写真:モンゴル帝国・元朝(龍泉窯) 1206年~1635年(てんりゅうじせいじこっかもんめいぴん)【天龍寺青磁 刻花紋梅瓶・宮廷御用磁器】(日本では鎌倉~江戸初期およそ800年前)
※詳細写真は写真をクリックすると見られます※

【斗彩鸳鸯戏水纹小碗】

中国・清朝(雍正早期官窯)

【斗彩鸳鸯戏水纹小碗】

「豆彩」
五彩(日本でいう赤絵・色絵)磁の一技法。まず青花で細い線の輪郭を描き、透明釉を施し、1300度の高温で、形を作り、再び赤、緑、黄色を透明釉の上で添色し、低温焼成で完成品になる。完成品に釉上彩と釉下彩の諸色が鮮やかに表れ、まるで綺麗さを争うようになっていることから、【闘彩】と呼ばれている。
絵付文様はていねいで気品の高い表現となる。この技法は初め明の成化年間(1465~87)に景徳鎮窯(江西省)で試みられて成立し、続いて明王朝下の歴代の官窯でもつくられた。豆彩とはその色調が青豆に似ているところから名前が付けられました。
豆彩はその技術の要求がとても難しく、なかなか良いもの出来ない。
数が少ないこともあり、その貴重性は非常に高く、希少価値もつきやすいです。数が少ない理由の一つとして挙げられるのが、本当に完成度が高いもの以外は破棄していたということも挙げられます。だからこそ残っている豆彩は完成度が高いものばかりなのです。なお、窯址出土の豆彩には、伝世品とは作調の違った、濃厚な色彩のものもある。成化期には宣徳期に続いて黄地青花が作られ、弘治以降は白磁緑彩、黄地緑彩なども作られている。成化期には青花の作品もあり、薄手に整形された青花の碗は欧米でパレス・ボウルと呼ばれて珍重されている。

◇写真: 中国・清朝(雍正早期官窯) 1722年〜1735年 (とうさいえんおうすいもんこわん)【斗彩鸳鸯戏水纹小碗】 雍正在位13年、 即公元1723年至1735年。(日本では江戸時代後期、およそ300年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※

【龍鳳刻花紋大盤・宮廷御用磁器】

モンゴル帝国・元朝(龍泉窯)

【龍鳳刻花紋大盤・宮廷御用磁器】

「元 龍泉窯」
龍泉窯は浙江省麗水地区龍泉県を中心として数百窯あった青磁窯の総称で世界最大の規模と生産を誇りました。窯跡は、浙江省麗水市龍泉市を中心に広く分布。唐時代から、青磁のほか黒釉も生産。青磁の本格的な生産は北宋時代に始まり、灰色がかった淡い色の釉調、淡青釉が特徴で、実用器のほか多嘴壺などの明器が作られた。北宋時代後期には緑青色の釉色が多くなり、南宋時代には明るい青色、粉青色の青磁(砧青磁)が出現する。元時代になると、「大作主義」と「加飾主義」との二大要素ということができる。高さが30センチを超える大壺、梅瓶、水注、扁壺、花瓶、香炉、径が40センチを越す大盤など、その典型作はいずれも重量感にみちた肉取りのあつい大作である。イスラム教圏の食文化を反映して盤が大型化した。貼花文や刻花文などの器面装飾が多用され、青緑色の青磁(天龍寺青磁)が主流となり、景徳鎮窯の製品と器形・文様がかなり共通している。作品が大きいため、花瓶などは「首やボディ、高台などパーツごとに分けて作っている」。高台裏に赤褐色に発色している蛇の目があるところ、また陰刻や陽刻の文様を施した作品が多いのも「天龍寺青磁」ならではの特徴といえる。天龍寺青磁では、劃花(かっか)や印花、透かし彫り、また、釉面に鉄斑を黒く飛ばして銹斑をつくる飛青磁(とびせいじ)といった様々な装飾が施されるようになりました。

◇写真:モンゴル帝国・元朝 (龍泉窯) 1206年~1635年(りゅうほうこっかもんおおばん)【龍鳳刻花紋大盤・宮廷御用磁器】(日本では鎌倉~江戸初期およそ800年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※

【大明嘉靖年製青花缠枝牡丹纹大罐】

中国・明朝/嘉靖(官窯)

【大明嘉靖年製青花缠枝牡丹纹大罐】

「明代嘉靖・万暦年間の青花磁器」
嘉靖・万暦年間の青花磁器にもはっきりとした風格上の特徴がある。この時期の青色は濃く、鮮やかであるが、その鮮やかな青の中にかすかな赤紫色が感じられる。文様の線は大まかで、形式にこだわることなく、自由に描かれている。文様の色彩には濃淡の差が少なくなり、濃くなっており、その濃さは線の色の濃さに近くなって、独特の風格をだしている。文様の題材は幅広く、百子図、龍鳳、魚藻、草花、吉祥図案などで、いずれもこの時代の特色があらわれている。
万暦年間を過ぎると構図も文様も粗雑になり、官窯の青花磁器は下り坂をたどり始めることになる。しかしその一方で注目に値するのは民窯の青花磁器である。とりわけ明代の民窯青花は詩情豊かで、想像力が発揮されている。文様図案の題材も幅広く、人物、花鳥、果実、雲龍瑞獣、山水遊魚、吉祥図案などさまざまなものがあらわれている。これらの青花文様は生き生きと描かれており、文様の意図に奥深さが感じられる。わずかな線描きによって、万物を天地空間にすえ、自然の妙を描き出し、内心にこもる感情を表現している。こうした風格は清代から現在に至る民間青花磁器の中にもずっと生かされ続けてきている。

◇写真:中国・明朝/嘉靖(官窯)   1522〜1566年(だいみんかせいねんせいせいかてんしぼたんもんおおかん)【大明嘉靖年製青花缠枝牡丹纹大罐】(日本では室町時代、およそ490年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※

【双魚皿 ・宮延御用磁器】

中国・宋朝(龍泉窯)

【双魚皿 ・宮延御用磁器】

「双魚」
中国では魚を「ユィ」と発音し、「有余(有り余る)」と同じ発音であることから、富と幸福のシンボルとされました。また、魚はたくさんの卵を産むため、子孫繁栄の意味合いもあり、魚の文様はたいへん縁起の良いものでした。
中国人は、太古の昔より熱心に子孫繁栄を祈念してきました。
その際に人々の注意を引きつけたのは、他の陸上動物とは違って一度に多量の卵を産むという魚の持つ多産性である。この魚の多産性と 子孫繁栄とが結びつき、そのイメージをより効果的に表現するために雌雄一対の形で描いた図像が双魚紋なのです。すなわちこれは、単に魚が二匹 描かれている、対偶だけを意識した図像なのではないということになります。

◇写真: 中国・宋朝(龍泉窯) 979年〜1280年【双魚皿 ・宮延御用磁器】(日本では平安時代、およそ900年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※

【大明永楽銘鎏金造像・宮廷御用品】

中国・明朝

【大明永楽銘鎏金造像・宮廷御用品】

「金銅仏」
中国では、古くから青銅器の伝統をもち、多くの禽獣(きんじゅう)像などがつくられていました。やがて、仏教の伝来により仏像がつくられ、また鍍金の技術も早くから発達していたので、4世紀ごろの小像はすべて金銅仏(中国では鎏金(りゅうきん)像ともいう)でした。
金銅仏とは、銅製の仏像彫刻に鍍金(メッキ)を施したものです。
仏身が黄金造りであったとの信仰から、インド、中国をはじめわが国を含む仏教世界で広く製作されました。作り方としては、蝋(ろう)で形を作った後に土を塗り、焼くと蝋は溶けて土は固くなります。蝋が溶けたところに銅を流し込んで固め、固まった段階で土を割り、できた銅像に金メッキを施して金色にするのです。
金色に輝く金銅仏は、通常の古銅の仏像よりも丁寧に作られているものが多い。一見、金銅仏のように見える漆に金箔を貼った漆箔(しっぱく)という仏像もあります。
しかし、鍍金(金銅)と塗金(漆箔)では価値がかなり違います。

◇写真:中国・明朝  1403年~1424年(だいめいえいらくめいときんぞうぞう)【大明永楽銘鎏金造像・宮廷御用品】(永楽・中国明朝第三个皇帝「明成祖」的年号,共二十二年。)(日本では室町時代、およそ600年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※

【官窯 弦紋长颈瓶】

中国・宋朝

【官窯 弦紋长颈瓶】

「官窯」
宮廷専用の陶磁器を焼く窯を官窯という。
宋時代の官窯は、まず北宋の都汴京開封府に置かれました。その後、宋の南遷にともない、杭州臨安府の皇城内の修内司、次いで新窯が郊壇下に置かれました。首都・杭州(浙江省)に置かれた官窯ではただ青磁のみが焼かれ、飲食器や祭礼の器などとして宮廷に納められました。胎土は鉄分の多い、陶器質の黒みがかった土で、これが分厚い青磁釉で覆われる。黒みのある土を選択し、これに厚く釉を掛けることによって深みのある青に発色し、胎土と釉の収縮率の違いから、器面には細かく貫入が生じている。青緑色の澄んだ釉色と複雑に入り組んだ釉薬の貫入が特徴である。
宋代の官窯は青磁窯であったが、明時代になると江西省の景徳鎮窯に永楽年間(1403~24)に官窯が設けられて、白磁、染付、色絵を中心として作陶され、清朝も1680年(康煕19)に景徳鎮に官窯を開いた。
朝鮮半島では李朝時代の広州窯(京畿道(けいきどう)所在)が正しい官窯であり、日本では江戸時代になって鍋島藩が築いた大河内窯をはじめ、各藩の藩窯が官窯にあたる。

◇写真:中国・宋朝  960年〜1279年 【「官窯」弦紋长颈瓶(かんよう げんもんながくびびん)】(日本では平安時代、およそ900年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※

【纏枝花紋大碗・宮廷御用磁器】

中国・明朝 (宣德官窯)

【纏枝花紋大碗・宮廷御用磁器】

「明代永楽・宣徳年間の青花磁器」
青花磁器は明の永楽・宣徳年間に、青花磁器の黄金時代となる。宣徳年間(1425~36)には、景徳鎮に「御器廠(ぎょきしょう)」つまり皇室に納める高級品を生産する官営の窯が置かれ、官窯製品には年款を記すことが一般化しました。そして、青花磁器は洗練さが加えられ、透き通るような質の高い白磁胎にコバルトの発色は冴え、濃淡の美しい繊細な文様を配した宣徳官窯器は、今日まで高い評価を得ています。
芸術的風格は元代の力強い豪放さから、流麗きわまりない製品をつくりあげるようになった理由としてあげるのならば、第一は、磁器が質的に向上したことで、この時期の青花磁器は素地が白く、良質になり、釉薬が透明で艶やかになり、顔料が一層鮮やかになっている。それに加えて素地が次第に薄くなって、磁器の質の美しさを高めている。第二は、題材と芸術的手法の新しさである。永楽・宣徳年間の題材は桃、柘榴、レイシ、枇杷、葡萄など各種の果物。牡丹、梔子(くちなし)、蓮、椿などの花。梅、蘭、竹、菊、芭蕉の葉、唐草、それに図案模様などがほとんどである。こうした題材には、当時の悠々自適の生活や清新俊逸の風俗が反映されている。大自然の中の美しく愛すべき果物や草花であり、こうした叙情的な題材を表現するために、新しい手法がいくつか採用されるに至った。一つに青と白の対称性を明確にすることであった、元代の青花のように密集したものは影をひそめ、青と白の分布にはバランスが考慮され、線は軽く、流動感にあふれ、飾りは明朗で美しくなっている。二つめに、文様を描くのに写実的傾向の手法がつかわれて、花や葉の部分に空白を残したり、わずかに色付けして、文様の形象をごく自然にし、しかも装飾性をもたせる。三つ目に、水墨画のように、釉薬や顔料を滲ませていることにより、濃淡をもたらすようになった。このような釉薬と顔料のごく自然な融合もこの時期の特徴である。

◇写真:中国・明朝 (宣德官窯)/1426年〜1435年 【纏枝花紋大碗・宮廷御用磁器】(日本では室町時代、およそ600年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【青花龙穿牡丹纹梅瓶 ・宮廷御用磁器】

中国・清朝(雍正晩期官窯)

【青花龙穿牡丹纹梅瓶 ・宮廷御用磁器】

「清代の青花磁器」
世界的に有名な景徳鎮窯は、長い歴史の中で様々な技法を開発し、世界に影響を与えました。
英語で中国のことをChina(チャイナ)といいますが、これは、「磁器」のことを意味しています。こういったことからもわかるように、中国磁器は中国の宮廷で用いられただけでなく、主要な貿易品の一つとなっていました。清代には明代に一度途絶えた景徳鎮窯の官窯が再開されます。宮廷から賃金を保障されたことで優秀な陶工や原料を集めることが出来た為、洗練された作品が生まれました。新たな技術よりもそれまでの技術を集結させたような作品が揃い、緻密な模様や濃淡の表現が可能となっています。コバルト顔料も、国産のものを用いながらも鮮やかで美しい色調の表現に成功しました。清代康煕年間で原材料の精製、製磁技術と絵付け技法の向上によって、青花磁器には次のような特色がいえる。第一は、素地や釉薬が白さを増し、丈夫になり、顔料が鮮やかになったこと。第二に、文様の線がすっきりし、青色の濃淡がはっきりと分かれ、一筆の中でも濃淡の違いが感じられるようになったこと。また、雍正年間の青花は明の成化年間のものとは少し違い、薄い顔料で文様の輪郭線を描いており、顔料に水をまぜる混水効果は採用せず、すんだ釉色や良質の薄い素地とあいまって、異なった風格をつくりあげている。

◇写真: 中国・清朝(雍正晩期官窯) 1722年〜1735年【青花龙穿牡丹纹梅瓶 ・宮廷御用磁器】(日本では江戸時代後期、およそ300年前)

【青花玉壺春瓶】

モンゴル帝国・元朝  

【青花玉壺春瓶】

「玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい)」
「玉壺春」という名前は、唐代以降の詩や詞の中に「玉壺春」や「玉壺春酒」という語句を見つけることができ、いずれも酒の種類・銘柄として記されています。古来中国では「春」字はしばしば酒の名に用いられており、古典籍の中には「玉壺春」ほかにも「土窟春」「石凍春」などの酒名が見られ、酒好きで知られる李白の詩中にも「金陵春」「大春」「老春」などの酒の名前が登場しています。「玉壺春瓶」が酒の名にちなんでつけられた器種名だとすると、その用途は酒器であったと想像されます。実際、中国元代の墓葬壁画には、宴会の場面の中で、瓶が机上に置かれたり、従者に抱えられて描き出されており、元代においては、玉壺春瓶は酒を蓄え注ぐための容器として用いられていたことが明らかになっています。下膨れの腹に細い頸、ラッパ型に開く口を持つのが特徴です。玉壺春瓶は宋代より陶磁器の新しい器形として現れ始め、宋、元の時期に広く流行し、定窯をはじめ、汝窯、耀州窯、景徳鎮窯、磁州窯といった窯場では必ずといってよいほど製作されたそうだ。元代・明代と時代が下るにつれ、すらりとしたシャープな形から太く重厚感のある形へと変化していきます。柔和な曲線が生み出す効果を充分に意識した、見事な造形感覚。その優れた造形性は強く人々の心をとらえ、元、明を経て清代に至るまで、非常に長い期間にわたって製作され続けました。

◇写真: モンゴル帝国・元朝 1206年~1635年【青花玉壺春瓶・宮廷御用磁器】(日本では鎌倉~江戸初期、およそ800年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【蒲纹相叠纹玉璧・宮廷御用品】

中国・戦国晩期ー西漢朝

【蒲纹相叠纹玉璧・宮廷御用品】

「玉(ぎょく)」
中国では新石器時代からはじまり現在に至るまで、「玉(ぎょく)」と総称される研磨すると美しい光沢を示す石材を非常に愛好されてきました。特に好まれたのは、ホータン(新疆ウイグル自治区和田)で産出される美しいネフライト(軟玉)で、中でも白玉(白色ネフライト)が珍重されていました。ネフライトという岩石は、宝石のヒスイ(翡翠)の一種としても知られていますが、実はヒスイと呼ばれる岩石には2種類あります。一つはヒスイ輝石(ジェダイト)、もう一つがこのネフライトです。これらはよく似ていますが異なった岩石で、硬さが違うことから、前者が硬玉、後者は軟玉と呼ばれることもあります。現在、一般に宝石の一種として珍重されるのはヒスイ輝石の方ですが、古代中国で特に珍重されたのは後者のネフライトでした。現存最古の字書である「説文解字」には、玉は「石の美にして五徳あるもの」とされ「仁、義、智、勇、潔」を持つとして説明されており、単なる鉱物としての魅力ではなく、敬意が込められた特別な存在として扱っています。また、玉の愛用された背景に「玉は神秘的な力を具えている」との認識が存在していたことが分かりました。その力とは、
(1)不老長寿になれる
(2)身が軽くなり、神仙になれる
(3)遺体の腐敗防止
(4)不吉なもの(悪霊など)を寄せつけない
(5)潤いを与える
(6)生命力の源が濃縮されている 
いずれの効果も、玉が「活発な生命力の塊」と見なされた故に期待されたものであると思われます。

◇写真:中国・戦国晩期ー西漢朝 紀元前770年~220年【蒲纹相叠纹玉璧・宮廷御用品】(日本では弥生時代、およそ2000年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※



【供御免毫盏】(建窯)

中国・宋朝

【供御免毫盏】(建窯)

「健窯」 
中国・南宋時代(12~13世紀)に、福建省の建窯(けんよう)で焼かれた黒釉の碗を建盞(けんさん)と呼びます。盞は小さい茶碗の意。
唐代から流行した喫茶の習慣を受け、宋代には黒釉の茶碗を専門に焼く窯として発展を遂げました。当時賞味された高級茶は白色の固形茶でしたので、茶の白さを引き立たせる黒釉の茶碗が好まれたのです。この種の碗は日本では天目と呼ばれ、茶道具として珍重された。建窯の碗は黒みがかった陶質の胎土に黒釉を掛けたもので、表面に茶色や銀色の線状の文様が現れるものが多い。これを中国では兎の毛という意味の兎毫斑(とごうはん)といい、日本では禾目天目(のぎめてんもく)と呼んだ。銀色の文様が丸い斑点状に一面に現れたものを油滴天目といい、大量に焼かれた建盞のうち、窯内で偶然、大小の斑文と、斑点の周囲に瑠璃色の虹彩が現れたものは曜変天目という。曜変天目は特に稀少なもので、現存するのは日本にある3碗だけだとされている。天目茶碗には、口縁部が強く反るタイプのものと、あまり反らないタイプ(いわゆる天目形)の2種類がある。

◇写真:中国・宋朝 960年〜1279年 【供御免毫盏・宮廷御用磁器】 (建窯)(日本では平安時代、およそ900年前)

【ニ系尊】(越州窯)

中国・西晋朝

【ニ系尊】(越州窯)

「越州窯」
中国の浙江省慈渓市やその周辺で発達した東洋最古の磁窯、およびそこで作られた青磁。この地方が戦国時代の越(えつ)の国に属するところから越州窯の名がつきました。1000年以上の歴史を誇り、東洋最古の磁窯だと言われています。浙江省蕭山(しょうざん)県や紹興県で初期の灰釉陶器(かいゆうとうき)を焼いた窯が二十数か所発見されています。後漢の時代になり急速に陶技を高めて、作風、釉調など類似するものが多く、器形も漢銅器などを模倣し、透明な青磁釉をかけたもので「古越磁 (古越州窯) 」と呼ばれる。その後、西晋時代・3世紀末ごろに青磁は著しく発展して完熟したが、六朝後期には作られる作品数が減っていき、隋唐時代には低迷期に入ります。しかし、9世紀ごろになると新しい越州窯が登場。再び作品が作られるようになります。五代時代には、呉越王銭氏の庇護のもとに盛行した越州秘色窯 「秘色(ひそく) )」が存在し、上品で優雅な青磁が作られましたが、11世紀中ごろに衰退。浙江省南部にあった龍泉窯が抬頭するにつれて越州窯は衰退していった。
「青磁」と呼ばれる鮮やかな青色をした焼物とは異なり、素地は灰色で釉(うわぐすり)は緑がかった灰褐色。明るいものから暗いものまで、さまざまな色味があることも特徴です。主にお椀や水注(茶道で使用される水をつぎ足すための道具)、合子(ふた付きの小物入れ)などが作られていました。
中国において青磁が大量生産され社会に普及する魁となったのはこの越州窯でした。

◇写真: 中国・西晋朝/ 265年~316年【ニ系尊・宮廷御用陶磁器】(越州窯)(日本では古墳時代、およそ1750年前)





「織部焼」

日本・桃山時代

「織部焼」

「織部焼(おりべやき)」
織部焼(おりべやき)は、桃山時代の慶長10年(1605年)頃、岐阜県土岐市付近で始まり元和年間(1615年-1624年)まで、主に美濃地方で生産された岐阜県を代表する陶器。美濃焼の一種ですが、志野焼の後に造られました。美濃出身の武人で千利休の弟子でもある茶人の古田織部(ふるたおりべ)の指導で創始された陶器で、歪な形、派手な文様、味わい深い暗緑色といった斬新なスタイルが特徴的です。
千利休は渋みのあるシンプルな「詫び寂び」な器を好んでいましたが、その弟子である古田織部は利休の好みとは正反対といえる好みをしており「織部好み」で作られた織部焼は、ほかの焼物にはない自由で豪快なフォルムや奇抜な文様(市松模様、幾何学模様)が特徴となっています。
安土桃山時代は南蛮貿易が盛んに行われた時代でもあり、色鮮やかな渡来品が人々の目を楽しませていた時代でもあったため、従来の茶碗とは全く違うファッショナブルな織部焼は「粋」な人々に愛されたようです。
織部焼といえば暗緑色の「青織部」が有名ですが、鉄分の多い赤土を素地とした「赤織部」、文様のない器全体を黒釉が包み込んだ「織部黒」、窓絵といわれる文様がついた織部黒ともいえる「黒織部」など10種類に分類できます。一般に「織部釉薬」といった場合は、透明釉薬に酸化銅などの銅を着色料として加え酸化焼成したものを言う。
織部焼は、江戸時代ごろまでは茶碗のほかに皿やとっくりなどの食器も盛んに作られていましたが、江戸時代以降は徐々に勢いを失い始め、1615年に創始者の古田織部が切腹したこと、寛永年間に入って古典的な青磁が復興したことの影響をうけ、姿を消してしまいました。

◇写真:日本・桃山時代~江戸初期 1573年~1868年【織部小鉢】(およそ450年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

「象牙彫刻」

日本

「象牙彫刻」

「象牙彫刻」
象牙彫刻(ぞうげちょうこく)は、象牙(きば状に伸びたゾウの門歯)を、一般に機械または手動で鋭利な切削工具を使用して彫刻することである。象牙はゾウが生きているかぎり成長を続け,大きなものは長さ3m,重さ90kgに達する。乳白の柔らかな色調ときめの美しさにくわえて,適度な粘りがあり、欠けにくく、固すぎず柔らかすぎず適度な吸湿性があるので細かな彫刻として古くから世界各地で工芸品の素材として珍重されてきた。ヨーロッパの旧石器時代の遺物には,マンモスのきばに人や動物の像を刻み,投槍器のような道具を製作した例が多数見いだされる。エジプト,西アジア,インド,中国などに栄えた古代文明は,それぞれに独自の技法と様式を発展させ,すぐれた美術工芸品を残している。人類は先史時代から象牙を装飾的に彫刻してきたが、19世紀にアフリカの内部が開放されるまでは通常、高級品に使用される、希少で高価な素材であった。なお1990年から、アフリカゾウの象牙の国際取引はワシントン条約により原則禁止となっている。

◇写真:本象牙一本彫〔寿老神〕
象牙彫刻の巨匠【小針雅生】作
系図 高村光雲ー平櫛田中ー小針敏生ー小針雅生
略歴 象牙彫刻38年、象牙彫刻研究会を結成し
信生、樹生の代表作家の作品を世に出し
企画・造形・合作・育成と幅広い彫刻に努める。初代会長。

象牙を用いた小針雅生の作品は、実に精巧で思わずため息が出てしまうほどの美しさを持っており、多くのファンを魅了してきました。小針雅生の作品には「雅生」の文字が刻まれており、共箱と呼ばれる作品を収納する木箱と一緒になっている事が多いのが特徴です。

【斗彩葡萄紋杯】

中国・明朝

【斗彩葡萄紋杯】

「斗彩」
紙のように薄い胎の上に赤や緑、青で絵付を行った〈豆彩〉が生まれ,遺品は世界で数十点しかないといわれている。明代後期の嘉靖・万暦期(1522‐1619)に景徳鎮窯の生産は頂点を迎えました。この技法はまず、景徳鎮の白色胎土(きめが細かく純白に近い白色の土)で成形した素地の上に淡い細い線の青花で文様(花、小鳥、蝶々、鶏など)の縁取りをします。青花で文様の輪郭を描いた後、透明の釉薬をかけて高温(1300℃)で焼成します。 それから、青花の輪郭に沿って各種(赤、緑、紫、黄、青など)の上絵を丁寧に塗り分けます。色(彩釉)を塗って青花の輪郭を埋めます。 それからまた焼き付けます。今度は低温(800℃)で焼きます。 こうして青花の淡い発色と、上絵のカラフルで鮮明な色調のコラボレーションが美しい磁器を完成させる。豆彩が完成した成化時代にはまだその名称ではなく、一説によると「成化五彩」と呼ばれていたようです。斗彩と呼ばれるようになったのは、清の時代、雍正(1723-35)と乾隆(1735-1795)の間とされています。

◇写真:中国・明朝/大明成化1368年~1644年【斗彩葡萄紋杯・宮廷御用磁器】成化是明朝时期第八位皇帝明宪宗朱见深的年号。起止时间为成化元年(1465年)至成化二十三年(1487年)共使用23年。明宪宗朱见深于天顺八年(1464年)登基, 次年(1465年)改元“成化”。(日本では室町時代、およそ600年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

【青磁刻花纹小盘】

韓国 ・高麗王朝

【青磁刻花纹小盘】

「高麗(こうらい)時代〔918~1392年〕」
高麗時代になると、朝鮮半島で本格的に磁器が焼かれるようになり、青磁と白磁が焼かれました。磁器のなかでも青みがかった色の釉が使われる「青磁」を中心に進歩を遂げ、やがて「高麗青磁」と呼ばれるようになりました。この青磁はすでに高度な陶磁器焼成技術を保有していた朝鮮陶磁が、中国の浙江(せっこう)省北部に広がる五代越窯(えつよう)の影響によって始まったと考えられている。中国青磁の「秘色」と呼ばれていた青に対し、「翡色」と呼ばれる澄んだ青緑色の気品に満ちた、絶妙な青色の高麗青磁を完成させ、透かし彫りなどのさまざまな装飾が加えられるようになりました。朝鮮独特の技法である象嵌(ぞうがん)技法が発達し、高麗青磁の中心的な装飾技法となり、「陶磁器芸術の最高峰」とも言われています。象嵌とは素地に文様を彫り、その凹部に黒土と白土を埋め込んで文様を表すもので、 もともと金属の装飾技法でした。青磁象嵌が獲得した青い釉下の白黒文様の鮮明さと端麗さは、高麗青磁の声価を不動のものにしました。中でも、その美しく密やかな釉色を最大限に利用した精妙な刻文のある青磁は、最盛期の作として評価が高い。こうした高麗青磁の二大生産地として有名なのが、南西部に位置する康津(カンジン)と扶安(ブアン)です。また、線刻や彫刻などの装飾が行われた青磁も作られたほか、銅を含んだ顔料を用いることによって上品な紅色を発色する辰砂という技法や、釉下に鉄絵具で文様をあらわす青磁鉄絵も盛んに作られた。磁器らしい繊細さと華やかさ、滑らかな肌の風合いが特徴的で、朝鮮半島はもちろん中国でも「天下一」と呼ばれる名品が数多く作られた高麗青磁ですが、13世紀以降にモンゴル人の侵入が始まり、高麗青磁は高麗王朝の衰退と共にその姿を消し、実用的で大量生産にふさわしい、灰色を帯びて堅く焼きしまった姿へと変っていきました。

◇写真:韓国 高麗/918年~1392年 【青磁刻花纹小盘】高麗王朝、朝鲜半岛古代国家之一。紀元918年,王建が王に。935年に新羅と合併し、936年に後百済を滅し“三韩統一”を実現した。高麗は今の朝鲜が都に!国土範囲は今の朝鲜半岛中南部相当。(日本では平安~室町時代,およそ1100年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

 


【明洪武・釉里红花卉纹大罐】

中国 明朝・洪武

【明洪武・釉里红花卉纹大罐】

「釉裏紅」
元代には顔料にコバルトを用いた青花のほか、銅を用いて赤く発色させた釉裏紅(ゆうりこう)も作られました。しかし、銅は気化する温度が低く、窯の中の温度が高くなり過ぎればすぐに蒸発してしまいますし、逆に低すぎれば、黒っぽくなってしまいます。また、焼成中に供給する酸素量も大変重要で、酸素を与えない還元焼成なら「赤色」に、酸素を与える酸化焼成なら「緑色」に発色します。銅を顔料に用い、焼き物を綺麗な紅色に発色させる事は大変困難な事で、元時代の釉裏紅はややくすんだ赤に発色したものが多い。西アジアとの交流が栄えた元の時代、青色に発色する「コバルト」が安価で大量に持ち込まれ「青花磁器」が盛隆を極めます。しかし、元王朝の滅亡と共に良質のコバルトの流通量が減り、仕方なくどす黒い発色の「国産コバルト」が使われました。その汚い発色に満足できなかった明初期洪武帝官窯において、試行錯誤の末に紅色の綺麗な焼き物が誕生しました。

◇写真:中国 明朝・洪武/1369〜1402年【明洪武・釉里红花卉纹大罐】(日本では安土桃山時代、およそ650年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※


【黄釉双龙戏珠纹素三彩大盘】 (康熙官窯)

中国・清朝

【黄釉双龙戏珠纹素三彩大盘】 (康熙官窯)

皇帝専用の文様「五爪の龍」
中国の明から清時代までにおいて中国では龍の爪の数に対する明確な決まりが存在しました。
明の初代皇帝は元の規則(五爪二角の龍文が皇帝専用の文様として規定。五本の爪をもち、頭に二本の角をはやした龍が権力のシンボルとして定めた。)を踏襲し、皇帝の象徴である龍は5つの足の指(または爪)。帝国の慣習としての貴族や高級官吏へ向けられた龍は4つの爪を持つと定め、3つ爪の龍は下級官吏や一般大衆に愛用された。(様々な明朝の唐物で広く見られる)。皇帝を除いたいかなる人物でも、完全に金色な5つ爪の龍を利用するのは死罪であった。適切な爪の数や色を利用しなかった場合、罪人の一族もろとも処刑するに値する反逆罪とされた。こうした規制にも関わらず、龍文は一般庶民にも人気がありました。明末清初には密かに焼かれた民間窯製の5つ爪龍文が出回っており、乾隆帝は龍文の独占を諦める詔を出しました。
「素三彩」素三彩は、釉薬(ゆうやく)をかけずに素焼(すや)きした白磁の素地(これをビスケット地と通称する)に、直接低火度の色釉を用いて文様をあらわす技法である。深みのある色調とやわらかい描線に特徴がある。赤色釉を除いて、緑・黄・紫などの色で、絵や文様を描いたもの。怪獣が最も珍重され、大物がこれに次ぎ、花鳥は普通だがこれもまた価値は高い。素三彩の大瓶は欧米で愛好され、黒地のものをブラック・ホーソン、緑地のものをグリーン・ホーソンと称する(ホーソンはサンザシの意)。中国、明代後期に始まり、清代に盛行した陶磁器。中国清代の康熙年間(1662-1722)に多く産出された。

◇写真:中国・清朝/1616年~1912年【黄釉双龙戏珠纹素三彩大盘】 (康熙官窯)1662年5月4日(康熙元年~1722年12月20日康熙61年)(日本では江戸時代、およそ400年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※




【斑唐津徳利】

日本・桃山時代

【斑唐津徳利】

「斑唐津」
斑唐津は室町時代後期、1580年前後から1590年前半に佐賀県唐津市北波多稗田で焼かれていたやきものです。1594年以降一時途絶えましたが、昭和初期の唐津焼復興と共に再びその姿を見せるようになりました。唐津焼の一種で白濁した藁灰釉(わらばいゆう)を用い、藁灰釉の表面が斑状になることから斑唐津と呼ばれており、色は白からグレーがかったものまで幅広いのですが、全体的に不透明な白いやわらかい肌を作り出します。青や黒の斑点は粘土に含まれている鉄分や燃料の松灰が器の肌に溶け出している為であり、藁灰の斑文の中でアクセントになっています。味わい深く温かい肌味が魅力で、昔から高い評判を得ている酒器をはじめ皿や碗、茶入などによく使われています。

◇写真:日本・桃山時代/1573年~1603年 【斑唐津徳利】(およそ440年前) ※詳細写真は写真をクリックすると見れます※


【志野香合】

日本・江戸初期

【志野香合】

「志野焼」
志野焼(しのやき)は、美濃焼の一種で、室町時代の茶人・志野宗信が美濃(岐阜県)の陶工に命じて作らせたのが始まりとされ、安土桃山時代に焼かれた白釉を使った焼物。赤志野や鼠志野などいくつかの種類があり、同じく美濃焼の一種である瀬戸黒とともに重要無形文化財に指定されている技法や、岐阜県の重要無形文化財に指定されている技法があります。美濃焼きの土は、可児市久々利から土岐市泉町久尻にかけて産出される白土が使用されています。耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土、もぐさ土という、鉄分が少なく、紫色やピンク色がかった白土が使われており、その白土を使用した素地に、志野釉と言う長石を砕き精製した白釉を厚めにかけて焼かれます。釉薬がかかった部分はぽってりとした厚みがあり、きめの細かい貫入や、味わい深い柚肌、優しい乳白色をしており、釉薬のかかりが少ない縁の部分などは赤みのある火色が見え、
白磁や青磁のような美しさを持ちながら、優しい温かさを持っていることが特徴です。さらに、これまで円形の茶碗が常だったものに歪みを作り変形させたことも当時は非常に新しい製法でした。

◇写真: 日本・江戸初期/1603年~1868年【志野香合】(およそ400年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※

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アクセス

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