本館収蔵品紹介
モンゴル帝国・元朝
「青花鬼谷子下山人物紋罐」
青花鬼谷子下山人物紋罐は元朝に作られた陶磁器の中でも傑作であり、中国春秋戦国時代の伝説的な策士かつ蘇秦・張儀の師と伝えられている鬼谷子(きこくし)が下山をする場面が描かれている。2005年にロンドンで行われたクリスティーズのオークションで、青花鬼谷子下山人物紋罐は27,700,000ドルで落札され、当時のアジア美術品の史上最高額となった。
白色胎土で成形した素地の上に、酸化コバルトを主成分とした藍青色に発色する絵の具で絵付けされ、4層の文様が描かれている。一層には水の波紋が、二層には絡みつく牡丹が、三層には牡丹とトラとヒョウが引く荷車に乗って山を下りる鬼谷子が、四層には変形した蓮の花びらと八宝が描かれている。この場面は、中国の歴史上の出来事を、フィクションを取り入れながら面白く講談した大衆向けの歴史物語である『全相平話』に収録されている5つの物語のうちの一つ、『楽毅図斉七国春秋後集』に由来している。『全相平話』は元時代(1321~1323)に刊行され、現存するものは一つしか発見されておらず貴重な資料として東京の国立公文書館に収蔵されている。
◇写真:モンゴル帝国・元朝/1271年~1368年 (せいかきこくしげざんにじんぶつもんほとぎ)【青花鬼谷子下山人物紋罐】(およそ800年前) ※詳細写真は写真をクリックすると見れます※
モンゴル帝国・元朝
「金・四神」
金は歴史的に古くから使用されている金属で、中国では、商時代(紀元前1600年~紀元前1046年)から既に装飾品として使われ、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)には貨幣などに使用された。中国 西安にある陝西歴史博物館でも、周・漢・戦国時代の金の装飾品が多く収蔵されている。古代中国で作られた金属品の中には日本とつながりの深いものもある。それは、福岡市博物館 収蔵品「漢委奴国王(かんのわのなのこくおういん)」の印綬であり、こちらも純金で作られている。
こちらの美術品は、純金でできており、水注の口が鳳になっている。また、前後に麒麟と鳳凰の紋様が細かに刻まれている。さらに、持ち手と蓋との継ぎ目は可動式になっており、丁寧な作りであることがうかがえる。
麒麟と鳳凰は、中国古代の前漢の宣帝の時代(紀元前74年から紀元前49年)に成立したとされる「礼記」という書物に四神として記されている。麒麟は獣類の長、鳳凰は鳥類の長とされ、しばしば対に扱われている。また、麒麟は雄を麒、雌を麟とし、鳳凰は、雄を鳳、雌を凰としている。
麒麟(チーリン)…泰平の世に現れ、麒麟がいるところには必ずいいことが起こるとされる大変おめでたい象徴の神獣である。性格は穏やかで優しく殺生を嫌い、寿命は2000年と言われている。
鳳凰…人の性格を見定め、栄誉ある人々や親切な人々を祝福すると伝えられている大変おめでたい禽獣である。日本や朝鮮など東アジア全域にわたり装飾やシンボル、物語、説教などで登場する。
◇写真:モンゴル帝国・元朝 1271年~1368年
【「純金」刻划麒麟火鳳凰紋・鳳首扁壶・宮廷文房御用水滴】
(じゅんきんこっかきりんひほうおうもんほうしゅへんこ)
(日本では鎌倉~江戸時代、およそ800年前)
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日本・江戸時代末期
「吉田屋窯」
吉田屋窯は、加賀大聖寺の豪商豊田伝右衛門が、本多貞吉の養子である本多清兵衛、粟生屋源右衛門と共に古九谷の復興をめざして、古九谷の地である大聖寺藩領九谷村に開いた窯である。吉田屋という窯名は伝右衛門の屋号からつけられた。
古九谷が廃窯した約120年後の文成7年(1824)の春に吉田屋窯初窯が焚かれたが、九谷村は地理的に悪く、文政9年(1926)に山代の越中谷に場所を移し、天保2年(1831)に廃窯となった。吉田屋窯の廃窯後も新たな窯が興り、磁器生産が続けられた。この時代に作られたものは「再興九谷」と呼ばれ、現代の九谷焼へと繋がっている。
吉田屋窯は、古九谷の青手を再現した「青九谷」を生み出した窯であると評判を呼び、当時から高い名声を受けていた。このため吉田屋窯で焼かれたものは再興九谷の中で初めて「九谷焼」と呼ばれるようになり、約120年前に焼かれ伝世されていた九谷を「古九谷」と呼ぶようになったという。吉田屋窯は、「工芸美の典型がここにある」といわれるほど、どれをとっても美しく、芸術的鑑賞に十分たえうる作品を出した江戸後期の有数な窯として広く日本に知られている名窯と位置付けられ、数々の優品が伝世されている。
器種は、平鉢・皿・徳利・盃・向付・手炉・燭台・香炉・茶碗などから摺鉢・土鍋・土瓶・植木鉢にいたるまで多種多様であり、高台には古九谷同様に、ほとんど角「福」が刻銘されている。
「青九谷」は、本多貞吉の薫陶をうけた粟生屋源右衛門と養子の本多清兵衛によって生み出された、青黒ずんだ素地に落ち着いた絵の具を厚く盛り上げる作品である。これは古九谷よりも一層落ち着いた渋さを感じさせながらも、彩度や明るさの点で絵の具相互がよく調和している。そのため、吉田屋窯の絵の具は絵付けをしても素地から離れることがないという特質を持つ。
こちらの美術品は青九谷の皿で、径 ㎝です。青手古九谷の塗埋手(ぬりうめで)を再興した青九谷は、赤を使用せず、青(緑)・黄・紫・紺青の四彩を使用し、器物全体を塗り埋めたものです。こちらの皿は、大木で一羽の白鷺が羽を休める様子を巧みに表現しています。また、緑や黄をメインに使用し、渋く重厚さのある独特の雰囲気を醸し出しています。
◇写真:日本・江戸時代末期(吉田屋窯)1824年~1831年
【青九谷 白鷺図 皿】
(あおくたに しらさぎず さら)
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中国・明朝
「何朝宗氏」
「何朝宗」氏は福建省徳化県出身の陶磁彫刻家(1522~1600)。
明朝 徳化窯 磁器彫刻の巨匠である。泥の彫刻、木彫り、石の彫刻の様々な技術を吸収し、彫刻芸術と優れた品質の磁器を巧みに組み合わせ、独自の「何派」芸術を形成した。彼が形作る様々な神仏は表情の描写を非常に重視しており、伝統的な彫刻の写意の強みを発揮し、精神など内に秘めた美が表現されている。また、彼の精巧な彫刻が施された神仏像は、それぞれに個性があり形状がリアルでいきいきとしていることが特徴である。
彼の作品は主に神仏であり、国際的に「東洋美術の宝」「世界で唯一無二の宝」など、多くの称賛を集めている。特に、白い磁器の仏道の彫刻が有名で、彼の彫刻された観音像は、ヨーロッパ人によって「東洋のヴィーナス」と呼ばれ、当時の磁器の彫刻の最高レベルを表している。
また、徳化窯は、宋時代に始まり明・清の時代に盛んになった福建省徳化県にある窯で、穏和な透明度と玉のような光沢をもつ「白高麗」と呼ばれる白磁が多く焼かれていた。特徴として、透き通るような乳白色の美しさ、貫入のない滑らかな手触り、繊細な造形が挙げられる。徳化窯は、明の時代に最も製品が優良であったと言われており、この時代にできた置物や香炉、花瓶は非常に値段が高く、とりわけ仏像に佳品があった。
当館展示の仏像は、滑らかな曇りのない白釉であり、白玉より美しいと言える。また、丸みを帯びた滑らかな曲線によって生み出される衣服の表現は、それが本物の布に思えるほど精巧である。さらに、何朝宗氏が重視している表情はとても柔らかく、そこに生きているかのような描写が施されている。
◇写真:中国・明朝(徳化窯・宮廷貢瓷)1522年~1600年
【明朝 著名陶磁彫刻家 何朝宗氏の(徳化・何朝宗)銘 仏像】
(みんちょう ちょめいとうじちょうこくかなんちょうしゅうしのとっか なんちょうしゅうめい ぶつぞう)
(日本では室町~安土桃山時代、およそ500年前)
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中国・宋朝
「氷裂紋(ひょうれつもん)」
氷裂紋とは、素地(胎土)と釉薬の収縮率の差によって生じる釉薬のひび割れのことであり、窯から取り出されたばかりの磁器はぴんぴんとはじくような音を立てて釉薬がひび割れていく。このひび割れは意図して生じさせているもので、ひびが氷の裂け目のように見えることから「氷裂貫入」と呼ばれており、他にも「亀甲貫入」「薔薇貫入」と呼ばれている。日本では、「氷割れ文様(ひわれ)」「氷竹(ひょうちく)」「アイスクラック」とも呼ばれる。
中国 宋時代に焼成された官窯の青磁にはこうした氷裂紋が多く見られていたが、宋時代が終わると氷裂紋の磁器を焼成する技術は失われたため、現存する氷裂紋磁器は非常に少ないと言われている。また、中国では、家具や建築物にも氷裂紋が使用されており、日本では、江戸時代初期に氷裂紋が伝えられ、陶磁器や襖絵、着物、帯の紋様としても多く用いられた。
こちらの美術品は、宋時代に焼成された氷裂紋杯であり、水を入れると乾く過程で紋様が浮かび上がって見え、釉調の美しさを感じることができます。
(高さ4.0㎝、口径9.0㎝、底径2.7㎝)
◇写真:中国・宋朝 960年~1279年
【(官窯)青釉氷裂紋杯・宮廷御用磁器】(かんよう せいゆうひょうれつもんはい)
(日本では平安~鎌倉時代、およそ1060年前)
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中国・明朝
「嘉靖・萬暦時代の五彩」
五彩とは、白磁を高温で焼き上げた後上絵具で絵付けをし、再度低温で焼き上げる技法(釉上着彩画法)で作られた磁器をいう(日本では色絵)。
明朝の嘉靖時代(1521~1567)は中国色絵磁器の最盛期で、五彩・金襴手(きんらんで)・雑彩(ざつさいとは、紋様と地を別色で表したものである)など、さまざまな技法の優れた色絵磁器が作られた。そして、大量の磁器製作注文をこなすため、「官搭民焼」という官窯から民窯に委託する磁器焼成が行われた。
嘉靖・萬暦時代の五彩は、紅・薄緑・深緑・黄・茶・紫・青釉が使用され、中でも紅が強く濃い色であることや、独特の鮮やかで明るい発色、器のほぼ全面に柄や模様が入っている点が特徴である。また、嘉靖時代の五彩は青花による輪郭線は用いられず、釉下の青花は他の上絵具と同様に青色を表す絵具として使われている。この時期に使用されていたコバルト顔料は、正徳時代(1506~1521)に西方からの輸入が始まった回青(かいせい)というものである。
嘉靖時代は金色の生産が特に人気で、こちらの美術品にも金で折枝花卉紋が描かれており、器面の紅は鮮やかで美しい発色をしている。また、全面に紋様・柄が入っていることから特徴的な嘉靖時代の五彩であることがわかる。器形は杏子の葉(杏叶:長い楕円、アーモンド形)のような形で、器面は八角形(八棱)になっている。金彩を要所に配する豪華な意匠と、丁寧な描法とによって明朝の五彩磁の中でも特に珍重されている。
◇写真:中国・明朝(嘉靖官窯)1521年~1567年
【枣皮红五彩描金折枝花卉紋八棱杏叶执壶・宮廷御用磁器】
(なつめひこうごさいびょうきんせっしかきもんはちりょうきょうかしっこ)
(日本では室町時代、およそ500年前)
中国・宋朝
「鈞窯」
中国・宋元時代の名窯。鈞州と呼ばれた河南省禹県を中心に、宋・元時代以降華北各地で焼造された。澱青釉という独特の青みを帯びた失透性釉薬による発色は「月白」「天青」と呼ばれ、オパールのような柔らかい輝きを見せる。澱青釉の下に銅呈色の紫紅釉という赤系統の釉薬を部分的に使用して斑文を表したものや、器全体に銅を塗り焼成した紫紅釉の作品も見られた。当時の各窯が単色釉であったのに対し、鈞窯では二種類の釉薬を使用していた。また、激しい窯変で知られ、「炎の芸術」と称された。器形には盤・瓶・碗・香炉などの一般的なものの他に、特徴的なものとして植木鉢・盆托がある。
こちらの美術品は、三つの足を持ち口縁は鼓釘となっている。「洗」はもともと手や顔を洗う為の器であるが、この鼓釘洗は装飾用磁器として作られたものである。また、鈞窯独特の澱青釉により鮮やかで見事な発色をしている。
(日本では平安時代、およそ1060年前)
◇写真: 中国・宋朝 960年〜1279年 (鈞窯)
(きんようこていせん)
【「钧窑」鼓钉洗・宮廷御用磁器】 (日本では平安時代、およそ1060年前)
※詳細写真は写真をクリックすると見れます※
中国・明朝
「青花磁器」
青花磁器とは、白磁素地にコバルト(当時、回青と呼ばれた)で絵紋様を描き、透明釉をかけ高度焼成したものである(青花:中国における染付の呼称)。
青花磁器は、伝統的な文化人の間よりむしろ、外国に輸出され各地の王侯貴族から一般人まで幅広く人気を博した。紋様のテーマも民間人が好む、物語絵・蓮池水禽紋・蓮池魚藻紋・牡丹紋・花鳥紋など親しみやすく分かりやすいものを採用していた。
成化・弘治・正徳時代の青花磁器は、元朝の様式を堅持しつつもやや作風は退化しつつある状態にあったが、正徳青磁は成化や弘治とは色や光沢が大きく異なるだけでなく、胎骨が厚く、青い釉薬がきらめくものがほとんどであった。正徳の青磁は当時人気の装飾であった大きな波を意味する波濤文(はとうもん)をモチーフにした文様を使用していた。
こちらの美術品は、正徳官窯で焼成された、元朝の青花磁器を模倣した品である。紋様も元朝青花に採用していた民間人向けの魚藻紋が採用されており、元朝の青花を尊んだことがわかる。魚藻紋は元朝の青花によくみられる紋様であり、魚の中国語音が「余」に通じ、財産が余るという吉祥の意味を持つともいわれている。
青花は元朝で繁栄した後、青花磁器をさらに洗練させた永楽・宣徳時代、青花の新たな展開ともいえる成化時代、民窯の力が増した嘉靖時代など、様々な様式・特徴が表れていきます。
当美術館では、各時代の青花磁器を比較してご鑑賞いただけます!ぜひお近くでご覧くださいませ!
◇写真:中国・明朝(正徳官窯)1505年~1521年
(せいとくねんせい もほう げんちょうせいかぎょそうもんほとぎ)
【正徳年製 模倣「元朝青花」鱼藻紋罐・宮廷御用磁器】
(日本では室町時代、およそ500年前)
中国・金朝
「鈞窯 乾隆帝御題文詩紋 紅斑鈞窯碗・宮廷御用磁器」
鈞窯とは、中国・宋元時代の名窯である。当時の各窯が単色釉であったのに対し鈞窯では、「月白」「天青」と呼ばれオパールのような柔らかい輝きを見せる「澱青釉」という独特の青みを帯びた失透性釉薬と、紅系統で器全体もしくは斑紋で使用された「紫紅釉」という二種類の釉薬を使用していた。
また、乾隆帝とは清朝の第6代皇帝である。清朝の文化や芸術を愛していた乾隆帝は、多くのコレクションを故宮博物院に残しており、清朝の最盛期と称えられる乾隆帝の在世時は文化・芸術的にも発展を遂げた時代といえる。
こちらの美術品は、全体を彩る澱青釉と斑紋の紫紅釉が美しい鈞窯の碗である。金朝に焼成された美術品であるが、清朝(1616年~1912年)の乾隆帝が収蔵しており、彫刻の形で本美術品を絶賛する詩を残している貴重な美術品となっている。
当美術館では、乾隆官窯美術品も多く展示いたしております。
乾隆帝の愛した作品たちをごゆっくりお楽しみくださいませ!
◇写真:中国・金朝 960年〜1279年
【金朝~宋時代の五大名窯】汝窯,官窯,哥窯,鈞窯,定窯
(けんりゅうていごだいぶんしもん こうはんきんようわん)
「鈞窯」【乾隆帝御題文詩紋 紅斑鈞窯碗・宮廷御用磁器】
「清朝」1736-1796年の乾隆帝が所有し御題文詩を残した。
(日本では平安~鎌倉時代、およそ1060年前)
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中国・宋朝
「定窯」
定窯とは中国、宋時代を代表する白磁窯で五大名窯の一つ。窯跡は河北省曲陽県澗磁村にあり、唐末期に開かれ、北宋期に飛躍的に発展する。定窯は、焼成の際に伏せ焼きにするため薄作りに仕上がり、鋭く厳正な形をもつ。伏せ焼きにする際、熔着を防ぐためにあらかじめ口縁の釉薬をはぎ取り、後の工程で口縁には覆輪(金属の輪)をはめ込んだり、白化粧したりする。また素地は象牙白色を呈し、その器面には刻花、印花、劃花、掻落し、貼花、金彩など多くの技法が用いられた。ほかに、色釉を総掛けした黒定、紅定、紫定と呼ぶものもあり、この窯の作品として知られる。定窯は元の時代まで脈々と続いたが次第に丁寧な作りは姿を消したため、北宋時代の作が最も評価が高いとされる。この展示品に使用されている醬釉は柿色釉とも呼ばれ、鉄を着色剤とする高温色の釉薬であり、酸化鉄と亜酸化鉄の合計量が5%以上と高い。他の柿釉と比べ黒釉に近い深く暗い褐色をしており、口縁は白化粧されている。また、器面には印花で紋様が施され、やきものとは思えないほどの優れた写実性と濃淡が見事に表現されている。
◇写真:中国・宋朝 960年~1279年
【宋時代の五大名窯】 汝窯,官窯,哥窯,鈞窯,定窯
(ほくそうていようじゃんゆうさんぎょてんしかもんわん)
「定窯」【北宗定窯醬釉(印)三魚缠枝花紋碗・宮廷御用磁器】
(日本では平安~鎌倉時代、およそ1060年前)
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中国・宋朝
「官窯」
中国宋時代の官窯は、まず北宋の都汴京開封府に置かれ…。その後、宋の南遷にともない、杭州臨安府の皇城内の修内司、次いで新窯が郊壇下に置かれました。皇帝や官僚の専用器具及び祭礼の器として宮廷に納められました。胎土は鉄分の多い、陶器質の黒みがかった土で、これが分厚い青磁釉で覆われる。黒みのある土を選択し、これに厚く釉を掛けることによって深みのある灰青釉に発色し、胎土と釉の収縮率の違いから、器面には大きい貫入及び細かく貫入が生じている。灰青釉と緑色の澄んだ釉色と複雑に入り組んだ釉薬の貫入が特徴である。
宋代の官窯は青磁窯であったが、明時代になると江西省の景徳鎮窯に永楽年間(1403~24)に官窯が設けられて、白磁、染付、色絵を中心として作陶され、清朝も1680年(康煕19)に景徳鎮に官窯を開いた。
◇写真:中国・宋朝 960年~1279年
【宋時代の五大名窯】汝窯,官窯,哥窯,鈞窯,定窯
(そう かんめい はいせいゆうこていせん)「官窯」【宗[官]銘灰青釉鼓釘洗・宮廷御用磁器】
(日本では平安~鎌倉時代、およそ1060年前)
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高麗王朝
「高麗」
高麗(918年~1392年)とは、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国である。元来は高句麗の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を高麗と称していたため区別のため王氏高麗と呼ぶこともある。
朝鮮半島では、三国時代から統一新羅時代の焼き物は素焼きの土器(無釉)であり、その後9世紀になると、墳墓から中国製の越州窯青磁や唐三彩の器が骨壺として出土したことで中国陶磁の影響を受け、青磁の焼成が始まった。12世紀には、翡色(ひしょく)という深い青みを帯びた美しい釉色、白や黒に発色する土をはめこんで装飾する象嵌(ぞうがん)など、高麗青磁特有の姿となる。
こちらの美術品は、足が龍頭に装飾されており、磁器の腹には回紋が描かれている。これは回紋の中でも最も一般的な正方形の回紋であり、このパターンの紋様は中国・馬家窯文化から出現し始め、商周青銅器や陶器に広く使用されている。
◇写真:高麗王朝
918年~1392年(かいせんもんりゅうそくろ)【回旋紋龍足炉・宮廷御用磁器】
(日本では平安~室町時代、およそ1100年前)
中国・明朝
「鴛鴦(えんおう・おしどり)」
鴛鴦(おしどり)がいつも雄雌つがいで泳ぐ姿から、中国では夫婦の変わらぬ愛を象徴する鳥とされてきた他、男女同時に使うものや二つが一つになったものに「鴛鴦」の名を冠している事がある。鴛鴦がつくものとして、紅茶とコーヒーを混ぜ合わせた鴛鴦茶、中国武術で用いられる鴛鴦鉞(えんおうえつ)などがあげられる。
「鴛」がオス、「鴦」がメスであり、それぞれの鳴き方を表している。
中国の故事には「鴛鴦の契り」という話がある。中国戦国時代、宋の康王(こうおう)の臣下であった韓憑(かんぴょう)が妻である可氏(かし)を王に奪われ、憤激のあまり、葬ってくれと遺書を残して自殺した。妻もまた葬ってくれと遺書を残して自殺した。王はわざと離れ離れに向かい合わせて墓を作ったところ、一晩で梓(あずさ)の木が両方の墓から生え、十日もすると枝が連なり根がからみあい、雌雄のオシドリが棲すみついて悲しい声で鳴いていたという。『捜神記(そうじんき)』より
この美術品には鴛鴦の紋様の他、芒口(のぎぐち)が銀で覆われているという特徴がある。
第14代皇帝である万暦帝の時代には、外国産の銀が大量に流入したことで流通経済は好況を呈し、その影響で文化的には明朝の最盛期を現出し、景徳鎮における万暦赤絵(万暦五彩)などの陶磁器の名作が生まれた。景徳鎮は中国を代表する名窯であり、宋代には白磁・青磁・影青、元代には青花・釉裏紅、明代には染付・赤絵が生み出された。景徳鎮の陶磁器は世界各国へと運ばれ、王族や貴族はもちろん、広く使用されるようになり、明・清においては、官窯として保護されている。
◇写真:中国・明朝(萬暦官窯)
1572〜1620年(のぎくちぎんがわせいかかくとうえんおうすいもんせきりゅうそん)【芒口银边青花核糖鸳鸯戏水紋石榴尊・宮廷御用磁器】(日本では安土~江戸時代、およそ450年前)
高麗王朝
「梵鐘(ぼんしょう)」
梵鐘とは、寺院の鐘楼(しょうろう)に吊るす釣鐘(つりがね)で、寺院内の行事のとき合図に打ち鳴らす仏教法具である。青銅製がほとんどであるが、まれに鉄製もあるという。梵語(サンスクリット)のbrahman(ブラフマン)を音訳したもので、清浄・神聖の意味がある。当初は教団内の律を知らせるための合図に使用されていた。撞木(しゅもく)でたたくと荘厳な音が発せられ、人々を仏の世界へと導いてくれる。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれる。
仏教はインドに起源を持ち、アジア各地に広まった宗教であるが、梵鐘に関しては、中国古代の青銅器にその源流が求められる。殷・周時代から制作されている「編鐘(へんしょう)」という青銅器が梵鐘の源流と推定されているが、この鐘は全体的に小型で、その断面形状は後世の梵鐘のような円形ではなく、杏仁形(アーモンド形)である。
日本で製作された和鐘と朝鮮鐘にはいくつか違いがある。1つは鐘のつり手で、和鐘は二頭の竜頭(りゅうず)からなっているが、朝鮮鐘はつり手の竜が一頭となっている。また、和鐘には胴の部分に帯状の「袈裟襷(けさだすき)」と呼ばれる文様があるが、朝鮮鐘には袈裟襷がなく、主として天人の浮き彫りが施されている。さらに、和鐘にはない、装飾的な「旗挿または甬(よう)」と呼ばれる煙突状の筒管が取り付けられている。
こちらの梵鐘は鈕(ちゅう(鐘を吊り下げるための金具))の竜頭が一頭であること、その脇に円筒管を立てていること、また鐘身に、三段三列の乳、上辺の突起帯、下帯の他、天人像を浮き彫りにしていることが朝鮮鐘の特徴を表している。
◇写真:高麗王朝
1101~1200年(ぶつぞうりゅうこうぼんしょう)【仏像龍勾梵鐘・宮廷御用鐘】高麗王朝、仏教寺院の鐘(日本では平安~鎌倉時代、およそ920年前)
中国・明朝
「绣墩(しゅうとん)」
绣墩とは、中国の伝統的な家具の中で最も個性的な陶磁製の腰掛けである。座面は円形、腹部は丸みを帯びた太鼓のような形状を持つ。主に庭園で使用された。古代の中国人は、椅子を使わず床に敷いたマットや低い台の上に座っており、座り方はあぐらか正座が一般的であった。また、座る台の高さが高いほど座り手の地位の高さを示していた。しかし、唐時代以降には人々は足を垂れ下げて座るようになり、高さのある家具が増え、家具の一種として绣墩がうまれた。
こちらの美術品は、皇帝・皇位を表す黄色が使用されており、皇室用の椅子であったことがわかる。※宋代から清代(960年~1912年)までの中国では、黄色は皇帝・皇位を表す色として尊ばれ、皇帝以外の使用が制限された。椅子の高さは約30㎝である。腹部には獅子が描かれているが、中国では獅子は聖獣として伝来しており、邪気を払う魔除けの意味を持つとして獅子の文様が定着している。獅子を猪(しし)、鹿(しし)などと区別して唐獅子と呼ぶこともあった中国伝来の幻想動物としての獅子は、頭側部両側や頸部、尾を火索状に渦巻く多量の毛で覆い、胴体、四肢に数個の文様を散らした特異な形状容姿である。
◇写真:中国・明朝(萬暦官窯)
1572〜1620年(おうゆうごさいししてんしかきもんこていしゅうとん)【黄釉五彩狮子缠枝花卉紋鼓钉绣墩・宮廷御用品】古代皇室用の椅子です。(日本では安土~江戸時代、およそ450年前)
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中国・明朝
「紅釉・牛血紅高足碗」
明朝「宣徳皇帝」により焼かれた紅釉陶磁器は、コストが高いため極めて低い成功率でした。こちらの美術品は「濃薄」と、蜜柑の皮のような「油胞」が特徴であり、完成品として「宣徳皇帝」に認められましたが現存数は少ない。約220年後 清朝「康熙皇帝」時代に郎窯紅陶磁が焼かれました。これは、明朝の紅釉よりも釉薬が人の髪の毛のように下へ厚く流れているのが特徴で、より綺麗に完成させたと言われています。本館では、清朝「康熙皇帝」時代に焼かれた郎窯紅陶磁である【康熙年製銘 郎窯红・赏瓶・宮廷御用磁器】も展示しております。ぜひ比較してご鑑賞ください!
◇写真:中国・明朝 (宣徳官窯)
1425年~1435年(だいみんせんとくねんせいめい こうゆう ぎゅうけつこうゆうとうそうこうこうそくわん)【大明宣徳年製銘・紅釉・牛血紅釉灯草口高足碗・宮廷御用磁器】(日本では室町時代、およそ600年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※
中国・清朝
「康熙琺瑯彩磁器」
琺瑯彩磁器の制作は康熙帝により進められ、宮廷の役匠や地方の名工、西洋人宣教師らの協力の下、約30年間の試験焼成の後に完成した。当時は「瓷胎画珐琅」と呼ばれ、それまでの伝統的な彩磁器に比べると西洋的なイメージに勝る新作で、より明るく鮮麗な色彩や装飾模様が施された。色材はヨーロッパからの輸入に頼っていたが、1728年以降になってようやく役匠などが琺瑯料の製造に成功し、それ以降は輸入品と国産品の併用が一般的になった。このことから、宮廷の職人が初めて手にした顔料と色彩は、地方からもたらされた桃紅色の顔料のほか、黄、緑、青、赤、紫、黒などと、それらを混ぜ合わせて作った様々な彩料があったことがわかり、他の国では見られない、18世紀の清朝宮廷独特の流行だったと言える。
こちらの美術品は、口が菱の花の形になっている碗で口縁は金化粧されており、厚く凸感がある花卉紋は黄釉上に様々な彩色で施されている。また、高台裏には「康熙御製」とあり、皇家の工房で落款が入れられたものだとわかる。皇帝を示す「御」という文字があることで、極めて特徴的な皇家の標記となっている。
◇写真:中国・清朝(康熙官窯)
1661年~1722年(おうゆうほうろうさいてんしかきもんりょうかこうわん)【黄釉珐琅彩缠枝花卉紋菱花口碗・宮廷御用磁器】(日本では江戸時代、およそ360年前)
中国・清朝
「郎窯紅・賞瓶」
郎窯紅は、清朝康熙皇帝により当時1705年から1712年に郎延极氏が督窯官をしていた景徳鎮窯、通称郎窯で焼かれた紅色陶磁器の総称である。
康煕帝時代に中国の好きな「深紅、桃色」を極めた。発色により、鷄血紅、牛血紅、火焔紅、林檎緑、桃花紅などの名前が残る。
牛血紅は厚手厚釉で厚釉に血筋が流れるように見え、極めて濃い色である。燃焼時に釉薬が下に垂れ、口縁部分は白色となり、そこから次第に紅くなり牛血紅と言われる鮮やかな真赤色を呈し、釉表には貫入が入る。強いガラス光沢があり、鏡のように明るく、玉のように潤い、血のように赤くという特徴がある。大変難易度の高い釉薬で製品化率は低く、現存する作品もわずかである。
清朝の間に登場した賞瓶はその名の通り、清朝皇帝から王侯の貴族へ、または臣下の功績を称えるために特別につくられ贈り物として使用された。形は玉壺春瓶に由来し、伝承品は基本的に同じ形であり、どちらも細長い首、丸い腹、円足である。
この美術品は、康煕皇帝が褒賞として功臣に与えたとされる作品で、賞瓶の美しい形状と郎窯独自の「牛血紅」が特徴である。
◇写真:中国・清朝 (康熙官窯)
1661年~1722年(こうきねんせいめい ろうようこう・しょうびん)【康熙年製銘 郎窯红・赏瓶・宮廷御用磁器】(日本では江戸時代、およそ360年前)
中国・清朝
「明朝・清朝の五彩」
白磁や白い陶胎の釉上に赤・青・黄・緑・紫・黒などの色釉(いろぐすり)で紋様を描き、低温度の窯で焼きつけたものを「五彩(日本では赤絵)」という。五色でなくとも同じ技法で焼かれているものであれば、二色でも六色でも五彩と呼ぶ。明代以降、景徳鎮を中心として盛んになり、嘉靖期には金彩を加えた金襴手なども登場した。清・康熙以降は精巧な五彩が官窯でつくられるようになり、粉彩や洋彩など新たな技法も生まれていった。
明代の五彩磁器は主に赤と緑で構成されており、その中には黄色と黒が点在しているが、清代の五彩磁器は明代のものより赤が少なく、穏やかで暖かい色であること、また、白い素地を生かした典雅なものが多いことが特徴である。
この茶杯は清代の作品であり、余白を残した紋様と落ち着いた色味が美しい磁器となっている。
◇写真:中国・清朝 (雍正早期官窯)
1722年~1735年(とさいじゅとうかちょうもんちゃはいいっつい)【斗彩寿桃花鸟纹茶杯一対・宮廷御用磁器】(日本では江戸時代、およそ300年前)
中国・清朝
「清朝の鳳文」
鳳凰とは中国の伝説上の動物で、鳥の中で最も崇拝される霊鳥です。そして、吉祥や調和の象徴でもあります。めでたいことが起きる前兆で現れるとされた縁起の良い鳥の代表で、徳の有る天子(皇帝)が出現した時に表れ、雌雄が一緒に羽ばたいて共に鳴けば、天下泰平である証とされました。
雄のことを鳳(ほう)雌を凰(おう)と呼びます。
鳳凰は皇后の象徴とされ、龍文の次に位の高い文として扱われています。
鳳凰の姿かたちは、鹿や蛇、魚、燕つばめなどさまざまな生き物の集合体として表されます。五色絢爛で、羽に孔雀に似た五色の紋があり、五音の鳴き声を発するという。
甘い泉の水だけを飲み、小動物や虫など生きているものを食することはなく、60年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食べる。とまるのは梧桐(ごとう アオギリ)の木だけで、巣作りの際に草花を折るようなこともしないとされています。
龍と同様に殷・周期の青銅器の文様に表れた始まりから、時代を追うごとに変化を重ねます。清に入ると唐以来久しぶりに鳳凰に脚が描かれます。清の鳳凰の脚は唐の鳳凰と比べると華奢で長く羽毛が青海波文様のように規則正しく並べられ、長い尾は優雅に翻る様子が描かれています。 全体が繊細で美観の洗練が見受けられます。
◇写真: 中国・清朝(康熙官窯)
1661年~1722年(ほうろうさい さんすいほうおうもんりょうかこうおおばん)【珐琅彩・山水鳳凰紋菱花口大盘・宮廷御用磁器】(日本では江戸時代、およそ360年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※
中国・清朝
「清朝(1616-1912)の陶磁器」
清時代の陶磁は、中国陶磁史の到達点・総決算と称されている。陶磁器生産の中心地は景徳鎮窯であった。明時代の万暦帝の死去後廃止されていた景徳鎮の官窯は康熙20年(1681年)頃に復活する。清時代には粉彩または琺瑯彩と呼ばれる、西洋の七宝焼を応用した絵付け法が開発された。琺瑯彩は七宝焼と考えてよいのだが、さらに中国の絵付け技法を融合させて中国独自の琺瑯彩がつくられた。粉彩は、美しい白磁の素地を活かして、色ガラスの粉末に鉛粉を混ぜて顔料を作っていくこともあって、絵付けの段階で仕上がりの色調が把握できることが大きな特徴である。そのため、絵画と同様に絵付けを施すことが可能となり、官窯において宮廷画家なども動員がなされ、陶磁器に絵付けが行われるようになる。粉彩の技法を施したもののうち、宮廷の内務府造弁局の琺瑯作で絵付けされ、ガラス顔料で上絵銘を記したものを「琺瑯彩」、景徳鎮窯で全ての工程を仕上げ、青花銘を記したものを「粉彩」と呼び分けています。東洋の釉上彩色は、水彩画や日本画のように彩料をニカワ・フノリで溶いた水溶(みずとき)で、それに対し西洋式では油彩画のように乾性油・不乾性油を混合する油溶(あぶらとき)と異なる性質を持ちます。粉彩はこの二つを併用し複数回の焼成を重ねる、非常に技術力と時間のかかる技法である。絵具の濃淡を活かした精細な描写で文様を描いており、繊細な筆致で活き活きとした様子が表されるなど、見るものを虜にしてくれます。当館では数多く粉彩及び琺瑯彩を展示しております。他では見られない大型の瓶もございますので、是非御覧ください。
◇写真: 中国・清朝(乾隆官窯)
1736年〜1796年(まついしりょくゆう ほうろうさいかべんもんぎょっこしゅんびん)【松石緑釉・珐琅彩花奔紋玉壶春瓶・宮廷御用磁器】(日本では江戸時代後期、 およそ300年前)※詳細写真は写真をクリックすると見れます※
中国・清朝
「豆彩」
五彩(日本でいう赤絵・色絵)磁の一技法。まず青花で細い線の輪郭を描き、透明釉を施し、1300度の高温で、形を作り、再び赤、緑、黄色を透明釉の上で添色し、低温焼成で完成品になる。完成品に釉上彩と釉下彩の諸色が鮮やかに表れ、まるで綺麗さを争うようになっていることから、【闘彩】と呼ばれている。
絵付文様はていねいで気品の高い表現となる。この技法は初め明の成化年間(1465~87)に景徳鎮窯(江西省)で試みられて成立し、続いて明王朝下の歴代の官窯でもつくられた。豆彩とはその色調が青豆に似ているところから名前が付けられました。
豆彩はその技術の要求がとても難しく、なかなか良いもの出来ない。
数が少ないこともあり、その貴重性は非常に高く、希少価値もつきやすいです。数が少ない理由の一つとして挙げられるのが、本当に完成度が高いもの以外は破棄していたということも挙げられます。だからこそ残っている豆彩は完成度が高いものばかりなのです。なお、窯址出土の豆彩には、伝世品とは作調の違った、濃厚な色彩のものもある。成化期には宣徳期に続いて黄地青花が作られ、弘治以降は白磁緑彩、黄地緑彩なども作られている。成化期には青花の作品もあり、薄手に整形された青花の碗は欧米でパレス・ボウルと呼ばれて珍重されている。
◇写真: 中国・清朝(雍正早期官窯) 1722年〜1735年 (とうさいえんおうすいもんこわん)【斗彩鸳鸯戏水紋小碗・宮廷御用磁器】 雍正在位13年、 即公元1723年至1735年。(日本では江戸時代後期、およそ300年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※
中国・明朝
「明朝嘉靖・万暦年間の青花磁器」
嘉靖・万暦年間の青花磁器にもはっきりとした風格上の特徴がある。この時期の青色は濃く、鮮やかであるが、その鮮やかな青の中にかすかな赤紫色が感じられる。文様の線は大まかで、形式にこだわることなく、自由に描かれている。文様の色彩には濃淡の差が少なくなり、濃くなっており、その濃さは線の色の濃さに近くなって、独特の風格をだしている。文様の題材は幅広く、百子図、龍鳳、魚藻、草花、吉祥図案などで、いずれもこの時代の特色があらわれている。
万暦年間を過ぎると構図も文様も粗雑になり、官窯の青花磁器は下り坂をたどり始めることになる。しかしその一方で注目に値するのは民窯の青花磁器である。とりわけ明代の民窯青花は詩情豊かで、想像力が発揮されている。文様図案の題材も幅広く、人物、花鳥、果実、雲龍瑞獣、山水遊魚、吉祥図案などさまざまなものがあらわれている。これらの青花文様は生き生きと描かれており、文様の意図に奥深さが感じられる。わずかな線描きによって、万物を天地空間にすえ、自然の妙を描き出し、内心にこもる感情を表現している。こうした風格は清代から現在に至る民間青花磁器の中にもずっと生かされ続けてきている。
◇写真:中国・明朝/嘉靖(官窯) 1522〜1566年(せいかてんしぼたんかもんほとぎ)【青花缠枝牡丹花紋罐・宮廷御用磁器】(日本では室町時代、およそ500年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※
中国・宋朝
「双魚」
中国では魚を「ユィ」と発音し、「有余(有り余る)」と同じ発音であることから、富と幸福のシンボルとされました。また、魚はたくさんの卵を産むため、子孫繁栄の意味合いもあり、魚の文様はたいへん縁起の良いものでした。
中国人は、太古の昔より熱心に子孫繁栄を祈念してきました。
その際に人々の注意を引きつけたのは、他の陸上動物とは違って一度に多量の卵を産むという魚の持つ多産性である。この魚の多産性と 子孫繁栄とが結びつき、そのイメージをより効果的に表現するために雌雄一対の形で描いた図像が双魚紋なのです。すなわちこれは、単に魚が二匹 描かれている、対偶だけを意識した図像なのではないということになります。
◇写真: 中国・宋朝(龍泉窯) 979年〜1280年(そうぎょせん)【双鱼洗 ・宮延御用磁器】(日本では平安時代、およそ1050年前)※詳細写真は写真をクリックすると見られます※
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